半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

練習と貯金 その2

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練習と貯金 - 半熟ドクターのジャズブログ 
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幸福とはなにか?不幸とは?

 おそらく幸福か不幸は、「お金」=技量の絶対量ではなく、収入と支出のバランスがどれだけ均衡しているかによるのではないか。
 やりたいことがあるが達成する能力がない、例えば、この曲やりたいけど難しい。これは「買いたいけれどもお金が足りない」状態ですね。これは確かに不幸。

 収入は多ければ多いほど嬉しい。これは当たり前です。
 しかし先ほどと逆にお金があり余るほどあるのに買うモノがない、という事態は、これはお金が無くてモノが買えないのと同様、もしくはそれ以上に不幸な場合があります。
 それは、端的にいうと愚かしさの証左だから。

 企業財務会計を考えれば、わかりやすい。企業では積み上げた黒字を使わずに死蔵するのは(経営の安定性には貢献するものの)よくない。リソースを死蔵させるのはつまり機会損失であるから。
 演奏能力=「所持金」を増やすんだって多大な時間を浪費します。学生の有り余る時間は、社会人では限定されてしまう。月並みですが、学生時代の時間の使い方は有意義に使われるべきです。それに本当のお金は交換・譲渡が可能ですが、今回例えている「お金」は本人しか使うことができないわけだし。

 吹奏楽部出身で楽器はとても上手なんだけど、アドリブができない吹奏楽出身のプレーヤーが、なぜ不幸かつ残念かというと、沢山お金は儲けたのにそのお金の使いみちをうまく設定できていないで、銀行に死蔵して使わず終わってる状態だから。

 そのためにはお金=技量をうまく使いきる方法を勉強し、理解しておく必要がある。

お金の使い方にはスキルが必要

 これをあえて強調するのは、練習を地道に行い貯金が溜まるだけでも人は相当な快感を得ることができるからである。自分の実力が蓄積されていき、自尊心が満たされると、練習のための練習を繰り返して、学生時代が終わってしまう。積み上げた自分の演奏能力=資産を、うまく使う方法は、練習で演奏能力を拡大するスキルとはまた別なので、別に習得する必要がある、ということになる。

 そういう観点がなければ、学生ビッグバンドを引退したジャズ研部員4回生が、コンボに転身して小難しいバップのテーマを完コピしたり……なんて、どこの大学でもみる風物詩のようなものですが、楽器は超絶うまいのに、どうにもださかったり。そして、今ひとつコンボに馴染めず、コンボへの進出をあきらめて、卒業してゆく……なんてパターン腐るほどみてきました。
 
 ひと言でいうと、お金の使い方が身に付いてないんですよね。まるでバブル期の日本人のように、有り余るお金でいいもの買ってんだけど、今ひとつセンスがないっちゅうか。定年退職したときに、退職金としてまとまったお金を得たけれども、お金の使い方を知らないサラリーマンの悲哀に似たものがある。


街場での雑感

 私はセッションによく行くのですが、 
「楽器のテクニックを磨く練習はいい加減にして、自分の楽器のテクニックを使い切る練習をしたらどうか」
と嘆息することはよくあります。

 前述したような、吹奏楽もしくは学バン出身で、楽器はめっぽう上手くて、Bopの難しいテーマなんかすらすら弾けちゃうのに、アロリブのメロディメイクがなってないようなソロはクソだせぇ。
 その一方、セッションに来る中級者以下のアマチュアは、単純に楽器のテクニックが足りてなくて聴いててモヤモヤする。もし楽器の技量が交換可能であれば、少しあいつに融通してやれよ……とか思ったりします。

テクニックと出音のバランスが過不足ない状態は、非常に滑らかで聴きやすいですが、あまりいません。

セカンド楽器のススメ:

 それでは、技量をうまく使い切るためにはどうしたらいいだろうか?
 一つにはセカンド楽器として、自分がうまく馴染めていない楽器を触ってみることであろうか。
 プロはセカンド楽器でもとてもいい演奏をするが、別に器用なんではなく、自分のテクニック=お金を限界まで使い切る、その見極めがとてもうまいからだ。
 中嶋悟は軽トラでも早い、という逸話のようなものだ。

結論めいたもの

 人生の幸福度が生涯獲得賃金によって決まるのではないのと同様、楽器の上手さというのは我々のジャズ人生にとって、本質的なファクターではありません。*1

 もちろん、我々の幸福度がお金の多寡に影響される程度には、楽器の上手さは我々のジャズ人生の幸福度に影響を与えるでしょう。

 金額の多寡はありましょうが、短期的に、つまり卒業の時点で、賃借対照表が収入・支出とんとんになっているのは比較的望ましい状態と言えます。あまりに残高がありすぎる状態は、むしろ不幸です。

 学生について言えば、一年生から四年生(もしくはそれ以上)まで、線形に技術力=お金の量が向上し続け、それに見合った難度の課題(コンボであるとか、ビッグバンドであるとか、ソロだとか)をクリアしてゆくのが、いいんでしょうけれども、なかなかすべての人間がそのような幸運な経過を取れるわけではない。しかし、可能な限りお金の獲得と使用にひどいギャップがないようにしておく心構えが必要だと思います。

 我々「ゲーム世代」としましては、そういう風に練習=貯金と発表=消費のサイクルを繰り返すイメージを持って大学時代を送ることをおすすめします。無目的に練習をしても、途中で頭打ちになりますからね。

 残念ながら、社会人になってからは殆どの場合、手持ちのお金=楽器の演奏能力は上昇しません。*2
 しかしお金の使い方、つまり限られたテクニックの中で上手く表現することについては、社会人の限られた練習時間においても、向上させることは可能です。社会人の「いい感じ」の演奏はそのような経験によって裏打ちされていると思ってください。

 ま、しかし、あんまり収入支出がとんとんだと、それですっきりしちゃいすぎるという弊害もあります。自分のことを振り返ると「大学の時にやり切っていないんじゃないか?」という未練が未だに音楽に向かわせる原動力になっている気もしますから。人生万事塞翁が馬という言葉どおり、人生を通してみた場合、結果的に何が望ましいのかなんて、案外わからないものです。

*1:プロになる場合は別ですよ。楽器の技量の絶対値を追求する必要は当然あるでしょう

*2:時々例外もありますし、全く上昇しないわけでもないですが、明らかに学生の成長速度よりは落ちます。プロは別です。

練習と貯金 その1

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(この原稿も2006年初稿を書き直したものです)

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練習と貯金 その2 - 半熟ドクターのジャズブログ


 大学生の時、いわゆるジャズ研*1に所属していた。結果的に7年も在籍したせいで後輩や先輩の成長、失敗、ドロップアウトなど多数見たが、人の行く末など大体決まったパターンに集約される。ちょうど我々の人生のバリエーションがそれほど多くない一定のパターンに収斂されるのと同じように。

 うまくなる人、うまくならない人。うまくなっても今ひとつ満足度が得られない人、ある程度充実した学生生活を確信して去って行く人、突き抜けてプロ活動を行う人、様々な人がいた。ところで、こうした数多ある経過の中で、どういった状態が「正解」なんだろうか?*2

経験者と初心者

 管楽器については吹奏楽部の「経験者」が往々にして伸び悩むのが一定数いる。では経験者がだめで初心者が幸せかというと、そうでもない。

 トロンボーンはどちらかというと敷居が高い。音を出すだけでも腹立つほど時間がかかる。ジャズでは他の楽器より不利な点もある。他の楽器のフレーズをトロンボーンに引き写す(transcribabilityとでもいいましょうか…)面では、不利で、上手な楽器演奏者にとっても簡単なことではない。

 やりたい事を実現するのには楽器の演奏能力は高いにこしたことはない。高い楽器の演奏能力は選択肢に幅があることを意味する。でも楽器の演奏能力さえ高ければ、即幸福につながるわけでもないのだ。

楽器演奏のマネープラン

楽器の演奏能力を、金額みたいなものと考える。

  • 楽器がうまい人は、沢山お金を持っている状態、楽器が下手な人はお金がない状態です。
  • お金が沢山あると色んなものが買える。
  • お金を増やすためには、練習をして、楽器がうまくなる必要がある。

 楽器経験者は、入学当初からある程度の所持金を持っている状態、初心者は所持金がない状態。

 所持金がないとお金は使えない。ほしいものがあればアルバイトしてお金を貯めるように、やりたいサウンドがあれば練習で自分の「所持金」を増やす必要がある。カーティス・フラーのファイブ・スポット・アフター・ダークやりたいなと思っても、最初はそんなの吹けません。まず初心者は基礎練習をして楽器能力を高める、つまりお金を貯めるところから始めなければなりません。

 但し、お金を貯める作業=練習は必ずしも楽しいものではない。少なくとも消費の快楽を知らないでお金を貯める作業は、そうそう長い間耐えうるものではありません。

 練習を継続することに慣れない初心者は、この段階でまず脱落することがある。お金を貯めて、使って、というサイクルは「苦→楽」という順番だが、最初の「楽」を迎える前にモチベーションを失って失速してしまうことはよくあるから。

 こうした事態には二つの理由があって、一つは、努力の割にはお金が貯まらない場合。これは本人の問題。もう一つは適切な「消費」の場がない場合。これは場、つまりジャズ研とか先輩とか、ライブとかコンサートとか。ある種環境の問題かもしれない。

 いずれにしろ、レベルの大小を問わず消費(あくまでも、音楽的な消費、という意味です)の快楽を早期に経験することは重要だろう。発表会とか、いわゆるD軍とか。練習→発表のサイクルはこまめに回した方がいい。

 で、こういうサイクルに乗れない新人はどうすべきか?この場合は早めに手を引く方が正解。こういう新入生を無理に引き留めると、本人のためにもよくない。本人の粘り強さにもよりますけれども、そもそもジャズ研だけが人生ではない。冷静に考えると、世の中楽しいこと有意義なことは他に沢山あるから。

 もちろん楽器経験者だって、入部当初から何でも買えるほどお金を持ってる人は少ない*3。今の所持金では買えないものを買うために、練習で所持金を増やすことは必要だ。但し経験者は練習→成果を発表するというサイクルに慣れている。だからお金を増やすことは本人の自主性に任せていいと思う。

 むしろ彼らに問題になってくるのは「お金の使い方」です。この世界では、お金を稼ぐのと同様お金を使うのにもコツが必要ですから。

 ところで、「不幸」とはなんでしょうか?

続きます

*1:正確には軽音楽部ジャズ。医学部のクラブではなく全学部の部活であったため、各学年20-40人くらいいて、部員総数は100人を超えるような団体だった。

*2:大学のジャズ研は、音大ではないので、職業音楽家を多数輩出することだけが求められるアウトカムではない。今社会人になって思うのは、大学の部活はある種の教養=趣味の生涯学習のきっかけを提供するのが真の目的ではないかと思う。

*3:ごくまれにいる

「即興」の意味

(この記事も過去記事の再掲です。初出2006)

 

問: ジャズの人は「アドリブ」に対してすごく価値をおいていますけど、正直言ってよくわかりません。
 最高級に完成されたソロがもしあれば、それはもういじりようがないはずです。毎回アドリブで、違ったソロをするというのは、逆に不完全性さの証明ではないのでしょうか。本当に優れたものには普遍性があると思うんです。
 前もってソロを作って演奏することと、その場で即興で行うこととの間には、果たして絶対的な差はあるのでしょうか?

 


 不幸なことにクラシックファンとジャズファンはそれぞれの音楽を自分の価値観で評価する傾向にあります。クラシックの評価軸で判断する限り、ジャズの即興演奏といわれるものは、そう評価せざるを得ません。

 

話し言葉とのアナロジー

 いつものことですが、音楽を言葉のようなものにたとえて話を進めているわけです。実際のところ、音楽を聴く際に活性化している脳の場所は、言語野にかなり重複しているともいわれています。

 なにかを発信したいという意志の元に我々は音を発するわけですが、これは言葉も音楽も本質的には変わりありません。違うのは、言葉の場合は伝えるべき要素はわりとはっきりとしており、概ね伝え手の意図どおりに聞き手に伝わる。
 対して、音楽の場合、伝え手ですら明瞭な意図をはっきり認識できず(言語化できない)、聞き手が正確に意図を受け取ることが目的の第一義ではないということでしょうか。
 音楽の場合、伝えることが出来るのは漠然とした情緒の残像のようなものに過ぎません。

 話を戻しますが、17世紀頃に発展したクラシックという西洋音楽の形態の場合、細かなニュアンスに関して解釈の余地があるものの、基本的には同じ音符を演奏することになります。

 絶対的に完成された音楽は変更の余地がない、という観点からこの様な形態に至ったと思われるのですが、これを「言葉」で置き換えてみると、クラシックの曲は、例えばシェークスピアの様な古典的な戯曲のようなものでしょうか。名演奏者は、シェークスピアを朗々と演じることのできる俳優の様な存在ということになります。

 もちろん、発せられる台詞が完全に同じであっても、抑揚やジェスチャー、演技などの細かい部分の解釈は個人に委ねられています。それが俳優の優劣であったり、個性であったりするわけです。

 さて、この「シェークスピアの劇中で優れた台詞回し」をする役者である彼が、ひとたび舞台を降りたとして、彼がプライベートで話す言葉はどうでしょうか。例えば女の子を口説いているときやパーティーで話している時。彼は、舞台での彼と同じように当意即妙かつウィットに富んだ言葉を言えるでしょうか。

 おそらく優れた戯曲に多く接した人間は、そういった優れた文学のエッセンスに親しんでいるであろうから、魅力ある会話ができる可能性は高いとは思いますが、それは彼の役者としての才能とはまた別の話であります。また、逆にシェークスピアの台詞は上手くしゃべれなくても、そういう魅力のある会話が出来る人はいるでしょう。

 ある言葉に対し、アドリブで言葉を返す。その言葉に対しさらに言葉を連ね、会話を盛り上げる。状況に応じた言葉遣いをし、時に盛り上げ、時にすかし、総括し、場の熱情をコントロールする。
 我々は、つまらない会話にしろ高級な会話にしろ、このような一連の言葉の選択を続けています。このような場面場面での会話の才能は、優れた戯曲を朗読する才能と、全くイコールではありません。そこにはまた別の技術が必要になってくる。

 ジャズの持つインプロヴィゼーションの価値は、これに近いと考えると理解しやすい。つまり、アドリブの本質は会話であるということです。

 クラシックをシェークスピアの演劇とするならば、ジャズにおける即興性は『ダウンタウンガキの使いやあらへんで』のようなフリートークと考えればよいでしょう。

 あの番組はダウン師匠とタウン師匠の二人が、アドリブで会話だらだらしているだけですが、それでも言葉を操る技巧が優れているために我々が(たとえばパーティーで)交わす会話を質的に凌駕しているわけです。

 ちなみに、フォーバースは「大喜利」です。嘘です。

アドリブの能動性


 問題は、言葉に関しては、我々は能動的に言葉を発することに慣れていますが、音楽ではそうではないということです。

 人が作った言葉を、そのまま朗読する機会はそんなに多くはありません。アナウンサーの原稿や、俳優、もしくは政治家の答弁くらいのものです。しかし音楽に関してはむしろ能動的な発語の方が少ない。音楽では、多くの場合一握りの作曲者が作った楽曲を演奏するという形態が主流を占めています。つまり作曲は一握りの作曲者にとって寡占されている。

 ですが、演奏には演奏の楽しみはあれど、作曲には作曲の楽しみがあるはずなんです。それこそ、俳優が演技で優れた戯曲の台詞を演じることと、自分の言葉で喋るのでは、別の種類の快楽が存在するように。

 かといって、作曲、もしくは作詞をするのは、それなりに長年の修練と様式の洗練が求められます。それゆえに作曲という快楽も寡占されてしまっている。

 即興演奏には、作曲という行為が持つイデアとパトスが多分に含まれています。もちろん、机上で作曲するのに比べると、チャンスは一度きりですから、完成度では比べものになりません。シェークスピアの戯曲の台詞と、おそらくシェークスピアが日常で会話していた会話の内容に大きな隔たりがあるのと同様に。だが、その本質的な快楽としては作曲と同種のものが含まれていると思います。

 アドリブ演奏の本質は、あくまで、楽曲の一部ではあるが、能動的な行為であるというところにあると思います。つまりは小さいレベルでの作曲であると、考えてよいのではないでしょうか。

「即興」の意味


 さて、即興演奏の意味論を考えてきたわけですが、今までは、即興演奏の「創作性」、つまりアドリブを行う意義について書いてきました。では「即時性」に関してはどうでしょうか?「その場」でソロを作るという行為に意味はあるのでしょうか?

 事前にソロを作って、それを演奏する、という形態でも、そのソロを自分で作れば、それは「アドリブ」と言って構わないはずです。では、その場でソロを仕立てるという形態と、そうやって事前に組み立てたソロではどちらが優れているのでしょうか?その場で組み立てるということはより一層不完全さの余地を残していると言えなくもありません。

 「その場」でソロを作る事には、非常に大きな意味があります。

 即興演奏が毎回異なったものになる大きな原因は聴衆との会話にあるのではありません。もちろん聴衆からインスパイヤされるものもゼロではありませんが、アドリブは、ステージに立っている他のプレーヤーの音に非常に大きな影響を受けます。

 ソロをとっている場合も、それに対して他の楽器はバッキングを通じてそのソロに対して相互作用を働きかけます。当然その成り行きは毎回同じものではありません。

 要するに、即興演奏が小さなレベルでの作曲と言いましたが、この点に関しては、他のプレーヤーとの交歓を許している分、ジャズの即興演奏はこの点では作曲よりも勝っていると言えます。

 もし、自分でソロを作って、それをステージで弾くだけなら、こうしたせっかくの他のプレーヤーとの交歓の機会を自分で閉ざしてしまうことになります。

 もちろん自由度が増えれば失敗の確率も増えます。マニュアル車は、優れた乗り手ならそのエンジンパフォーマンスを引き出すことが出来ますが、へたくそが乗るならオートマの方が遙かにましでしょう。それと似ています。

 しかし、へたくそなドライバーでも、事故らない程度に上手くなれば、オートマよりもマニュアル車の方がドライブは楽しいものです。下手くそアマチュアジャズ演奏家がはびこる理由の一つがこれです。私も含めて。上手くなればなおのこと悦びが得られることでしょう。

 念のため補足しておきますが、プロの人でも全くソロを作っていないというわけではありません。例えばJazzmessengersの持ち曲、Moanin'などでは、"入り"のトランペットのソロとかはお約束のように常にキュっとしたハイノートから入りますし、ソロの流れも大体は決まってはいます。
 多くのプロフェッショナルな演奏家の同じ曲の別テイクを聴くと、その人なりの「流れ」というものは大体決まっていることがうかがえます。これはプロにとっても「完全な自由」というのは多大なストレスを強いるものなのではないかということを窺わせるわけですが、ただ、まるっきり同じではない。それは、いろいろなテイクを聴いてみて下さい。もしくは同じミュージシャンのライブを追い続けてみて下さい。わかるはずです。

 ここまでいろいろ書いてきましたが、もしあなたがこうした即興演奏という形態をとらない音楽(端的に言うとクラシック)に長年親しんでいるのであれば、ジャズの即興演奏に馴染めないのは無理からぬことと思います。しかしちょっと考え方を変えてみて下さい。あなたが即興演奏に価値を見いだしにくいのは、あなたが作曲というものをしたことがなく、(したことがある人の方が少ないとは思いますが)、クラシックのそうした作曲の楽しみをまだ経験していないからではないかと。

 全く別の事のスポーツ、ルールだと思って、今までの既成概念を取り去ってやるといいのではないかと思います。

 多くの野球選手が、ゴルフも上手に出来ます。慣れてくると野球のトレーニングを通じて習得した様々な身体感覚はゴルフにも共通のものであるからです。クラシックとジャズの関係も似たようなものかもしれません。クラシックを体得するのに培ったいろいろな素養は必ずジャズでも役立ちます。しかし初めっからクラシックのルールでジャズをやろうとしても、それはなかなか無理が生じるのではないでしょうか。

ジャズの理論とは

(この記事は過去記事の再掲です。2006年)

 


問い:ジャズのアドリブをするためには理論がどうのこうのとよく言います。
だけど、本によって言ってることが全然違ったり、理論だけでは説明できないとか、理論を外れなければならないとか、はっきりいってわけわかりません。
ジャズをするために、本当に、理論は必要なのでしょうか?
そして、もし必要ならどの程度必要なのでしょうか?

 

 はい。
 この混乱はおそらく「理論」という言葉があまりに多くの意味を内包しすぎるために生じていると思われます。

 僕個人の意見としては「理論」は必要であるともいえるし、必要でないともいえる。

 

言語習得でアナロジーしてみる。


 これでは、まるで禅問答のようにも聞こえる。
 そこで、話をわかりやすくするために日本語にたとえます。

 もしあなたが、日本語を全く話せない人だったとする。
 日本語をまず話すなら「おはよう」「こんにちは」などの挨拶から始まるでしょう。意思疎通のための最低限の単語や短文。
 少し習熟すれば「今日は寒いですね」とか「庭の木が葉を落としてしまいました」など、ちょうど世間話のような簡単な会話を行い、自由度の高い意思表示を行うことになります。
 いずれにしろ言語は意思表示のためにあり、自由度の高い意思表示を行うためには修練が必要です。

 初学者のレベルは、いわゆる「ストックフレーズ」を憶えることから始まるでしょうね。たとえば旅行者用の英会話本とか、そういうやつ。英語が話せない人でも、そういうフレーズをいくつか憶えておくだけで、お店でのやりとりとかをこなすことはできますよね?

 但し、ストックフレーズにはない自分のいいたいことを言いたい時、あなたは文を自分の頭の中で構成しなければなりません。この時に必要になってくるのは、ある程度の文法です。文法の構造が理解出来ていないと、違和感のない言葉には辿り着けませんね。あなたが外国人で日本語を話したいのなら、そういう文法はあなたの頭の中には内在していないはずなので、日本語の文法についてレクチャーを受ける必要があるでしょう。もしあなたが逆に日本人であれば英語について同様のレクチャーを受けなければならない。

 これが「理論」です。
 「日本語の理論」とは日本語の文法なのです。
 というか、いわゆる「音楽理論」というのが英文法や日本語の文法と同じものなんですよね。

 そういう観点からは、「『理論』が必要か?」と言われると、まあ必要だ、と言えます。

しかし文法は万能ではない


 さて、あなたは村上春樹司馬遼太郎宮部みゆきなどの作品に出会い、自分も同じような小説を書きたいなと思ったとします。
 さて、このとき、何かよい理論があるでしょうか?

 そうです。村上春樹も、司馬遼太郎も、宮部みゆきも、誰も「理論」から外れた文章は書いていません。
 しかし、理論だけではこのような作品はかけません。
 言葉の海はあまりに茫漠としていて、その取捨選択には無限の組み合わせがあります。「理論」はその中で、「使ってはいけない」禁則を教えてくれるだけで、その他、無限にある「正しい」語句のなかから「一番ぴったりな一語」を選んでくれるわけではありません。

 おまけに、文章上のリズムや流れによっては理論的に正しくないとされる語句がふさわしいことさえあります。それは作者によって様々です。
 村上春樹には村上の、司馬遼太郎には司馬独自の「特別ルール」があります。村上のルールでは司馬の書き方は「理論的に」間違っているだろうし、逆もまた然りです。

 このレベルに関する「理論」というのはありません。おそらく理論はあるのだと思うんですが、それは多くの場合言語化されて共有されるものではありません。いくつかの特殊な例外として、歴史上の超有名な文筆家、ゲーテとか沙翁とか、そういった人物に関しては彼ら特有の文体研究などが為され、理論が定式化されていることがありますが。

結論


 そもそも「文法」というのは「禁則」を説明するのにしか有用ではありません。膨大な語から一語を選ぶ(ポジティブセレクション)ことに関して、理論はほとんどの場合何も教えてはくれません。理論というものがまだしも有用なのは、「間違った」風に聞こえる言葉が、どうして間違ったように聞こえてしまうか、つまり間違った言葉の選択(ネガティブセレクション)を説明する時だけです。

 我々は普段日本語を書くときに日本語の文法に縛られています。しかし日本語でものを伝えるときに文法に「制限されている」という感覚はうけません。それは「理論」がきちんと無意識下に内包化されているからです。しかし、英作文を作る際には我々は難渋します。理論が咀嚼されていないからです。このときには英文法に「制限」されているように錯覚します。

ジャズの理論とは


 いわゆるJazz理論といわれているものも全く同じように考えてよいと思います。コード進行などにより使う音、スケールなどにある程度の制限を受けますがそれによって自由が損なわれるわけではないのです。

 というわけで、ジャズをするために理論は「必要」だと、私は思います。
 しかし、意識下にのぼらないほど咀嚼されていることが必要でしょう。 

 言語化できる程度まで理論を理解する必要はありません。チェット・ベイカーは楽譜が読めなかったという逸話もありますし、そもそも、我々が日本語を喋るときに5段活用とかいちいち思い浮かべて話すでしょうか?また5段活用レベルの文法について詳しくしることが、人を感動させる文章を書くことにつながるわけでもない。

 自信をもって下さい。もしあなたがちゃんとジャズの唄が歌えている自信があるのなら、理論を頭で理解する必要はありません。
 ただ、もし一抹の不安があるのなら、そしてあなたに理数系の頭がちょっぴりあれば、理論をすこしさらってみると新しい発見があるかもしれません。

 

ヒノテル問題の私感

私の立ち位置は、地方の中級アマチュアミュージシャン。プロとは時々絡んで演奏をします。日野さんとは地方のホールコンサートのあと地元に立ち寄ったアフターセッションで一緒に演奏させていただいたこともありました。COI(利益相反)はありません。

結論から言っちゃうと、

  • あれは体罰児童虐待の範疇ではなく、むしろパワハラであろう。
  • 日本の枠から飛び出してグローバルかつ自由なライフスタイルを獲得した日野さんが、日本的な体罰文化の文脈という矮小な視点で断罪されたことに、ボタンのかけちがいというか悲劇があった

と思っています。

事実関係:


2017年8月20日世田谷パブリックシアターで行われた中学生ジャズバンドの演奏中に日野がドラム担当の生徒に対して髪をつかんだあと往復ビンタをするという暴行をした。週刊文春は動画を入手しており、2017年8月31日に発売予定の週刊文春でも取り上げられ、TVなどでも報道され、物議をかもした。

 

中学生にステージ上で暴力をふるった、というのは間違いない事実であるが、
この事件を契機に体罰とか昭和オヤジ的な話になっているわけだが、なんかそれは違うとも思いつつ、モヤモヤ考えがまとまらなかったわけですけれども。いくつか自分の考えを述べてみます。長くなって恐縮です。

 

基本的に日野皓正さんは、格下には温厚。


日野さんが、レギュラーコンボの人たちには割と厳しくて、MCとかでも愚痴を言ったり、今回の事例にもうかがえるような、一部物理的な暴力を伴うディレクション(シンバルを蹴り上げたり)があるというのは、以前から聞いてはいました。
ただ、それは、あくまで自分の影響下の自分の認めたプレイヤーであり、自分のサウンドを共に創っていく仲間に限られること。
グループレッスンとかワークショップとか、子供を教えるような場では、基本的には温厚だと思います。
上にはヘコヘコし下には高圧的に接し体罰も辞さないという、日本のおじさんに昔よくいたようなタイプでは全くない。「中学生に体罰」という事実に脊髄反射的に寄せられた批判のほとんどは、そういう非難でしたが、日野さんはその枠では語れない。なにせ日本の枠に収まらずに飛び出した「世界のヒノ」だもの。

件の中学生については、ジャズ的な技術については相当のものがあり、日野さんも肩入れをして、どちらかというと近しい関係性であったということで。
 まわりの子どもたちからしたら、日野さんに目をかけてもらっている、認められてることは、その事実も実力も含め羨望の的であったことでしょう。結果殴られましたけど、そこまで濃密な人間関係を形成できるまで近接できているのは、まわりからみると特権的な立場でさえあるわけです。非常にパラドキシカルな話ではありますけれども。

事後の父子のコメントにも、そのあたりはあらわれているように思います。決して周りに言わされているわけではないと思うのですよ。

 

大人が子供に体罰を与える…?

 


そもそも中学生で実力のある人間であれば、ジャズ・ミュージシャンとしてはもう大人。
マイルス・バンドにトニー・ウィリアムスが加入したのは16歳の時でありました。幼少からジャズ専門教育を受けている人たちも増えて、最近は中学生くらいでプロに準じた実力をつけているものは決して少なくはありません。ジャズ界では、この年令は、昔でいう元服と同じで、実力が伴えば、一人前扱いを受けてもおかしくない。
だから、大人が子供に体罰を与える、という「児童虐待」という枠で考えるとおかしくなる。むしろパワハラ、という文脈で語られるもののように思われる。

 

では、メンバーであれば暴力は許されるのか?


日野さんが自分のグループのメンバについて、わりと「キツい」というのは業界でも有名な話ではありまして、それは、今の水準でいえば、アウトであるっちゃあアウトでしょうね。ここは難しいところで、日野さんを擁護したい人たちも、完全に容認できない最後の一線ということになるでしょう。

30年前は当たり前のことは、今ではダメになっている。タバコに関することも、たとえばセクハラ的な言辞などに対することも、昔は大らかで(大らかというのは少し語弊があると思いますけど)はありました。

日野さんも海外での生活も多いし、いわゆるサラリーマン的な社会人生活とは無縁の方ですから、そのへんの時代の違いについて鈍感だった可能性はある。

うーん、じゃあ日野さんがあかん、で終わっていいのか、といわれると、個人的には疑問に思っています。

今ジャズって、学校で教わったりするようなもんになっていますけど、基本的にはショウビズであり、めちゃめちゃ社会のロウな部分のものだし、黒人のジャズメンは公民権を勝ち取るまではきっちり差別されていました。マイルス・デイビスだって、ナイトクラブでスター気取りなのに、店をでたら白人の警官に「ボーイ」呼ばわりされて警棒で小突かれたりが当たり前だった、という屈辱的なエピソードを回顧しているし、暴力、ドラッグ、酒、女、そういうありとあらゆる非教育的な混沌と猥雑から醸成してできた音楽がジャズなわけです。
アメリカに渡ってそういうジャズの中で揉まれてきた日野さんって、多分、今自分やっている態度の100倍くらいひどい目に遭っているはずなのよね。

いつしかジャズは文化的なスノッブなものになりました。昔からそうなんですが、往時は聴き手と演奏家の間にかなり懸隔がありました。生身の演奏家に接するのは、東京に住んでいる文筆家・文化人とか特権的な一握りの人たちだけでした。今ではミュージシャンとの物理的・心理的な垣根はどんどんなくなっています。我々アマチュア・ミュージシャンも、プロとアフターで接したりしていますし、たとえばプロが地元のアマチュアミュージシャンにやるワークショップとか、大学でジャズマンが教えてたりとか。

今のジャズは、基本的にはそういう猥雑なものがクレンジングされて、市井の一般人がアクセスできるものになっていますが、そこには多分功罪がある。本来のジャズはもっとデンジャラスなものでありました。僕たちはそれを忘れすぎてはいないか、と思います。
僕たちは動物が檻に入れられて無害化している動物園だと思って接しているけど、昔気質のジャズ・ミュージシャンなんて、鎖につながれていない野生獣でしかるべきであるわけで。そして日野さんはそういうジャズ文化の最後の世代に属していることを忘れちゃいけない。

だから今回の一件で、日野さんには「Genuine Jazz Musician」と刻印して、売り出したらいいんじゃないか、とさえ思う。もちろん逆説的な意味ですけれどもね。

んで、最近の若手はそういうクレンジングされたところからジャズの世界に入っていきますけど、実力の階梯を登るにつれてリアルのショウビズ界の理不尽な洗礼はどこかで受ける。そういう人に対して、多少手荒ではあるけれども注意する、というのはやはり誰かがやらなければいけないことなのではないか、とは思いました。
実は殴ったりするのって、責任も引き受ける事でもありますから。やんわり「次はあの子呼ばないで」とかいう風になる方がよっぽどきつい。でも多分大半はそういう反応なわけですから。

 

以下Web上でみられた論に対する個人的な反論:

 

公衆の面前で叩くなんて…


じゃあ、まあ、バックステージだったらいいの?
むしろ陰湿でしょ?
この人が教育専業の人で、体罰が常習化しているなら、きっとバックヤードでネチネチやるでしょうね。その意味では日野さんの行動は大変正直。バカ正直といってもいいかもしれない。
多分正解は「スタッフに引きずり降ろさせる」だと思う。ステージ上で衝動的に暴力を振るったということはやっぱり非難されても仕方がないことでしょう。

 

ヒノテルなんかジャズの歴史に一切関与していない、こんなやつなんか聴く必要ない

大した音楽家ではないですよ(太田光


うーん。私もヒノテルの音楽はそれほどは聴きません(アルバムはいくつかもってます)。しかし日野皓正のバンドのメンバーは逸材ぞろいで、卒業した人も含めると日本のジャズシーンでは無視できない影響力があります。もちろん日野さんのバンドに入りさえすれば実力が形成されるわけではなく、多くは当人の努力で実力を獲得したものだけど、マイルスに似て「ヒノテル・スクール」の経歴は、一定以上の質の保証になっていることは事実でしょう。
それから、一旦ジャズの本流が滅びた80年代以降の今のジャズは、ある種歴史のない時代といえます。ジャズ史の多くはそれ以前に形成されたもので、日野皓正がその歴史の中に入っていないのは、仕方がないという気もする。

 

暴力を振るうのではなく、音で黙らすべきではなかったか


うーん。フロントの立場で、暴走したリズムセクションを自分のプレイで引き戻すのは、基本的に無理です(ロストしている場合は別)。あとこれビッグバンドでしょ?コンボならともかく、大きいバンドは、一旦サウンドがばらばらになったら、破綻なく復調をさせることはなかなか難しい。
こういう場合は、欧米では”Stroll”というマジックワードがあって、それがディレクターから発せられると、舞台から去らなきゃいけないんですって。教則本にも「君たちが余計な音をだしてStrollと言われないことを願っている」とか書かれてた。
強制終了スイッチが壊れてたら物理的に止めるしかない、というのはしょうがないのかもしれない。

アドリブの構成力と一発力

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アドリブってどうやるの?という後輩からの問いに対して、今まで自分なりに自分の方法論を伝えたりした時期もありましたが、ここにきて、大きな要素を見落としていたことに気が付いた。

 自分は昔コード感を出したメロディメイクがきわめて苦手だった。音感のない、センスのない野郎だったのだ。地道な練習でなんとかそれを克服し、獲得したスキルであるがゆえに、私はコード感をつけるということを逆に偏重していたような気がする。

 でも、コード感だけで「そこにはまった音」を置いていくだけでは、魅力に欠けたり、地味だったりする。ある程度コード感関係なしに放たれる「強度を持ったフレーズ」も重要な要素ではないか。ハイノートしかり、定番ベタネタファンキーフレーズしかり。

 たとえば、お笑いでいうと、「漫談における話の構成力」と「一発ギャグ」とは全く相反する要素である。

構成力の観点からは一発ギャグというものは異質で理解不能な要素であり、一発ギャグの観点からは構成力というのは笑いに直結しがたい理解しにくい部分であろうと思われる。要するにこの二つの要素はx軸とy軸のように独立した次元のものなのだ。

すぐれたお笑いはその両者の要素がバランスよくブレンドされている。しかし各人によってその両者の要素のバランスは異なる。

 おそらくジャズのアドリブも然り。

 * * *

理解しやすくするために、ラーメンズのお二人を例示してみよう。

小林賢太郎片桐仁

コンビで対照的な立ち位置を形成し、成功している二人だ。

まず小林賢太郎だが、ラーメンズの緻密コントは彼の筆によるわけで、かれはいうまでもなく「構成力」に強いタイプといえる。参考までに ラーメンズ「レストランそれぞれ」のコントをあげておこう。緻密な文脈形成能力がうかがえる。


ラーメンズ『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』より「レストランそれぞれ」

一方、片桐仁だ。構成力に関してはあまり強いとは言えないものの、フィジカルに強く、動物的勘にすぐれた「一発ギャグ」の破壊力は他にはない魅力がある。彼をフィーチャリングしたコント「タカシととうさん」をあげておこう。緻密な構成はそこにはなく、一発フレージングの強度に依存したコントであるが、これはこれでものすごく面白い。


ラーメンズ たかしと父さん 1/2


ラーメンズ たかしと父さん 2/2 

 

志村けんのギャグも「外人や子供にもわかるギャグ」と言われるけれども、おそらく彼も「一発ギャグ力」に強い系譜で、これも強度が強いフレージングゆえの吸引力だろうと思われる。

 * * *

 私は長らく小林賢太郎的な要素が好きで、アドリブフレージングの方法論かくあるべしと思っていた。しかし自分のアドリブの「ひきの弱さ」みたいなものも昔から痛感していた。それは単に自分の力不足と考えてたわけだけれども、要するに、真髄の片側しかみていなかったからかもしれない。

 私の好きなミュージシャンは、例えばアートファーマーだ。ああいうそろりと語り、歌うソロが目標なのだ。そういう自分からすると、メッセンジャーズのリーモーガンのフレーズとかは「かっこいいんだけど…あれはね…」みたいな態度をとらざるをえず、今一つ咀嚼できていなかった。

 アートファーマーの構成力は好きだったけど、リーモーガンのフレージングは一発ギャグ的で、それゆえに咀嚼しきれなかったんだと思う。*1

 大学の軽音時代に、片桐仁的な一発ギャグ的な要素を重視したフレージングにたいして、私はあまり理解を示さなかったことを後悔している。今思えばそれも大事なことだし、そっちからアドリブの世界に入っていくのも、ありだよなあと最近は思う。後輩達に対して、ネガティブな影響をおよぼしたのではないかと、今冷や汗を垂らしているところなのである。

(この話は2014くらいにSNSに書いたものを再掲)

*1:もっとも、コピーはそれなりにはした。多分暗黙知で必要性を感じていたんだろうね

ジャズが好きなのかなあ

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気がつくと25年ばかりジャズをやっているわけです。セッションに行ったり、ライブやったり、たまにはビッグバンドをやったりなんですけれども、やればやるほど「ジャズ」という言葉に内包される音楽の境界というのはわからない。

 どんな領域のことでもそうだけど学問的な話をする時にはまずは「定義」から始めるもんです。語義を定義して、対象の範囲を明確にしてから議論を行う。けど、ジャズに関して言えば、この「定義」こそがもっともむずかしいんじゃないかという気さえする。

 例えば、アフロアメリカンの粘るビート・グルーヴ、スウィング感とか、そういうのは私も当然好きなわけですけれども、でもじゃあボサノバはどうかというと、ボサノバも好きなわけです。自分でライブするときには、セットリストに結構ボサノバとかサンバとか入れてる。ジャズでボサノバはやるけど、じゃあボサノバがジャズかっていうと、それけっこう微妙な話なんである。

 そういうことをふまえて深く考えると、

僕が好きなのは本当にジャズなの?

と自問自答してしまうわけです。少なくともブルーグラスの人がブルーグラスを好きなようには、僕はジャズが好きじゃない。多分。

 この話は学生の時に散々考えたが、あまり明確な答えも出ず、最近は演奏することをまあ優先させてあまり考えないようにしていたのだが、最近思うのは、僕は「ジャズ」が好きなんじゃなくて「リードシート・システム」とでもいうべきジャズコンボで用いられる演奏の形態が好きなんじゃないか?ってこと。

リードシート・システム。

今、仮称してみたが、つまりメロディーとコードフィギュアの比較的シンプルな「設計仕様書」を元にその場で音楽を構築するスタイルのことだ。

これの極北がジャム・セッションであるが、もう少しかっちり作り込んだものも含めて、音楽の中に、ある程度自由度を残した形態だ。

 リードシートには最低限の取り決めしか書かれていない。そこから、自分のスタンスで音を出していかなければならない。もちろん、他のプレイヤーとぶつかることもあるし、噛み合うこともある。偶然が重なりとんでもなくいい演奏になる可能性もある反面、ちょっとしたボタンのかけちがいで、ズタズタになってしまう可能性もある。

そういった意外性・ダイナミックさが、僕は好きなんじゃないか。クラシックにしろ、ポップスにしろ、ロックにしろ、音がなりだしてから音がおわり一曲が終わるまでの間の形は、比較的スタティックなものだが、いわゆる『ジャズ』と但し書きがついているような場合は、予定調和的な展開を裏切っても(結果いい演奏になりさえすれば)罪はない。

聴き手からすれば、あまりピンとこないと思う。ただプレイヤーの立場からすると、この言葉は結構便利だと思います。

「ずっとクラシックやってきましたけど、今ジャズも勉強してます」

と言われると、何?ジャズをお勉強?とちょっともやっとするんですけど

「今リードシート・システム勉強中です」なら、うんまあ頑張って、と言いやすいかも。

リードシートというのは簡単なものではあるが、正調のコード進行を、ちょっと記載を変えるだけでハーモニーの解釈の違いまでも表現できる。しかも演奏者の主体性も残したままで。

こういう玄妙さは、飽きることがない。セッションで既成の『黒本』を使っているだけでは、このリードシートシステムの面白さを堪能しつくしているとは言えない。マクロやVBAを使わないエクセルみたいなもんだ。