ピッチの話 その3 場末での話
前回の続きです。
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場末の話
ともあれ、かような歴史的で偉大なバンドにおいて、ピッチは相対的で深遠なものではある*1。
しかしアマチュアが普段場末のセッションで演奏する場合は、そういう深遠な話以前の問題。
単にピッチは「いいか悪いか」のレベルに帰結する。
私はトロンボーンなので、特にそう思うのかもしれないが、
バックのサウンドの音程が狂っている中で、自分の音程をうまくあわせることは、なかなか難しい。
ピアノとベースの音程がずれているセッション。
ピッチ感覚がよくても、いやよければこそむしろ逆に演奏しづらい。
どこにあわせたらいいかわからない状態になるから。
でも、このパターンはまだ傷は浅い。
ピアノの音程は、再現性がある分、あわせやすい。
もしピアノの音程が悪くても、その音は何回連打しても変わることはないので対応はできる。
ベースの場合は、全体の音程が高い低いというタイプのずれというより、音程感の悪いベースの人が問題になる。
すべての音の精度が低い、という狂いかたの場合、出音が、どれくらいずれているか、予測できない。
出す音ごとに、その狂い方もバラバラなのだ。
ただ、ベースは低音なので、ピッチの許容範囲は、他の楽器よりは広いとは思う。
もっとひどいことになりうるのはギター。
先程のと比べて狂いの程度は地滑り的に大きくなる可能性がある。
ギターの方の中には、音韻情報には注意を払うけど音響情報に無頓着な人がいて、そういう人は音程が大抵悪い。
ピアノと違って、ギターはチューニングを必要とするが、こちらの許容範囲を超えた音程の場合は、やりづらい。
また、フィンガリングの問題で、きちんと音がでていない人もいたりする。
そういうつぶれた音は、音程以前の問題ではあるが、想定した音をだしてくれない。
こうなると、トロンボーンの僕はフレーズも、高音もあたらなくなる。
昔は自分の調子が悪いと思ってへこんでいたのだが、最近は、そういう状態で音程をあわせようと思っても傷つくだけ。
いつしか傷つくことをやめた。
ただ、こういう状態でも、プロは自分の中の絶対音を引き出せるのか、きっちり自分の音を出し切る。
すごいと思う。
僕はダメだな。そんな不愉快な状況で演奏をする機会は自然と避けるようになる。
* * *
静かに対談できるときは静かに自分の言葉を選んで語ればいい。
が、朝まで生テレビみたいに、お互いの話なんか全然聴いていないようなディスカッションの場では、言葉の正確性はともかくわあわあやりあうテンポとタイミングこそが重要であって、言葉の整合性は二の次なのだろう。
チューニングの狂った場での演奏には、そういう感じがつきまとう。
トロンボーンの吹き方に関する話
いずれにせよトロンボーンは音程は口元で合わせることもできるし、スライドの抜き差しでも細かい調節が可能な楽器だ。
チューニングスライドが多少狂っていても、目的の音は出せないといけない。
トロンボーンの場合、音程が悪いのは耳が悪いと同義で、サックスのように楽器のせいにはできないのがつらいところだ。
* * *
適切でない管長でも、正しい音は出せる。
スライドのポジションはともかく、口でピッチを引っ張り上げたり、押し下げたりすることはできる。
ただし、適切でないポジションで出す音は、口で合わせている分、無理している。
倍音が細って、音色も細くなる。
また速いパッセージで音が当たらない。
要するにスイートスポットにあたっていない音になる。
例えばピアノにBbを出してもらって、トロンボーンの音を添わせる、という形であわせる場合、耳と口で、とりあえず音は合うのである。
だが、曲中で吹いているとしっくりこない。
これはゴルフのスウィングのずれのようなもので、曲中で修正することになるが、まーそういう風に修正は、うまくいかない。
その時、口ので音を上げているか下げているか、をきちんと体感して、ちょうどいい管長をさぐっておく必要がある。
それは結構難しい。
なので、アンブシュアによる修正のない、リラックスした音でBbの音を吹く。
そこにピアノのBbの音を足してもらって、合っているかどうか確認した方がいい。
そうすると、一番気持ちいい音でキレイにチューニングがあう。
パカパカと柵越えのバッティングができるに違いない。
トロンボーンプレイヤー
ちなみに、トロンボーンの場合は、楽器時代がこのようにピッチについて自覚的であることを要求される楽器だけあって、ピッチの感じ方はある程度演奏から推し量ることはできる。ピアノの平均律ベースでAny KeyのTransitionをむりなく行えているトロンボーンはMicheal Davis、Conrad Herwig。
逆にこの人達の音は、どこかで「トロンボーンの鳴りのよさ」を犠牲にしている感じがつきまとう。
Bennie Greenとかはその真逆で、Any Keyで演奏なんて全然しないしできないが、トロンボーンにて行われるフレーズとしては非常に鳴りがよい。
現代の人では、Steve Davisはトロンボーンらしさが目立ち、平均律感よりは、Bb調性感がつよい。
個人的にお手本にしたいのはUrbie GreenとJim Pughのピッチだ。
日本のプレイヤーでは、録音で伺うかぎり佐野聡さんと駒野逸美さんのピッチ感覚がすばらしい。
もちろん村田陽一さん、中路さんなど、CDになっているトロンボーンの人は概ねいいピッチではありますけどね*2。
正しい「ミ」は、実際のところ、微妙だ。純正律的なミと平均律的なミがある。
これはトロンボーンのスライドにしたら1cm程度は差がありそうだ。
ピッチの話 その2―ロン・カーター。音程の多義性。
前回の続きです。
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マイルス・スマイルズ
話を個人のレベルに落とすが、ロンカーターである。
ロンカーター、昔の僕は、単に「ピッチ悪いやつだな」と思っていた。
びよんびよん曖昧なビートで曖昧な音を弾く、みたいな感じで、どうもあまり凄みというのを感じなかったのです。
でも、最近ロン・カーターを聴きなおしてみたのだが、ロンカーターはピッチそんなに悪くない、というか倍音の構成上、ピッチのいい悪いを判定しにくい音である。いわゆる弦楽奏者的な「いい音」ではなくて、壁のような鈍さがあるというか、下方倍音がリッチな感じ?
対して、ペデルセン(NHOP)はロンと対照的だ。
ものすごく明快な音程でソロもウォーキングベースラインも奏でている。
「トゥイーン」という感じの、ものすごく音程が明確な音を出す。
それと比べると、ロン・カーターの音はつぶれているようにうつるし、「ブーン」という感じでなにしろ曖昧だ。
しかし重要なのは、そういう「ピッチのあいまいさ」こそがおそらくマイルスの求めるところだったんじゃないか。
ペデルセンのピッチはよすぎるのである。良すぎて、ダイアトニック・トーンが、透けて聴こえる。
やっていることの頭の中が透けすぎるピッチなのである。
マイルスのいわゆる「ザ・クインテット」と呼ばれた時代は、各人の提供する音は、かならずしも統制されたものではなかった。
各々が頭脳と経験を駆使して、それまでの定型的なフレージングからはずれた新しいことを模索していた。
決して、一つのモード=イデオロギーに凝り固まることがなく、その場その場で実に「民主的に」ベースとなるモードが決定されては変化していた。
こうしたバンドでは、最低限決められた規範=モードの中で、ソリストやピアノは、自由な動きをする。
この可塑性こそがモーダルインターチェンジの本質だと思うが、そういう演奏における自由さを担保し、しかしそれぞれが出しうる異質性がばらけないようにまとめていたのが、ロン・カーターの音の曖昧さ=多義性だったのかもしれない、と最近の僕は思っている。
ピッチの話 その1 ピッチの意味論
最近の僕にとって*1、音程に悩むのは以前ほどではなくなった。
楽器を始めた学生の頃は僕はあまりピッチがよくなかった。
だが、中学生・高校生、そして大学一年生くらいまで、
今思うと、ピッチが悪いころは、実に「ピッチが悪い」ということさえもわからないレベルだったのだ。
とことんよくなかったのだ。
自分がブサイクであることすらわからないくらいブサイクだったわけである。
* * *
大学二年生の時にとんでもなく音楽的に優れた後輩が入ってきた。
彼女はあきらかに自分よりピッチがよかったので、ピッチの悪さに自覚的にならざるを得ず、それが改善につながったような気がする。
ピッチの悪い人間が、自分のピッチの悪さを自覚していることは殆どない。
逆に言うと、自分のピッチの悪さを自覚しながら、確信犯で音程の悪い音を出し続けることに、多くの人は耐えられない。
ブサイクと知りつつ、ノーメイクブサイクでいつづけることは出来ない。
ゆえに、自分の中のピッチの精度以上には、出音のピッチの精度は上げることはできない。
これはある種当然のことだ。
* * *
トロンボーンは、音を離散的ではなく連続的に取り扱わざるを得ない楽器である。
その点ではこの楽器はボーカルと本質的には同じだ。
ま、これはフロント楽器はみな同じ。
ことさらトロンボーンに限った話でもない。
音程の悩みから完全に開放されているのはピアノやオルガンだけ。
音程に自覚的でないと、ジャズ語法を実地適用できない。
たとえば、サックスもボタンを押したら正しい音程がでる、なんてことはない。
音程はそれぞれのポジションごとに口で細かく合わせないと、正しい音は出ないらしい。
しかし初心者の時は、運指どおりに動かしてその音を出すかで精一杯。
ピッチが悪いといわれるけれども、よくわからない人は、あまり残響音が響かないところで(トイレとかが適当だ)ドレミファソラシドと口ずさんでみればいい。基準がない状態で、自分の感覚の中にあるIntervalだけを頼りにを音階を歌うのは、結構難しい。
これをやれば、自分のピッチの悪さが、少しはわかるかもしれない。
Non-Diatonicとピッチ。
しかし、あまりにもピッチに対して先鋭的にありすぎる場合、ジャズ語法の多義性を阻害してしまうのかもしれない。
オルタード、ホールトーン、コンディミは、ジャズでよく使われる3大イキりフレーズだが、これは平均律の12音階の中で、ある種の理論的な対称性を優先させた結果のもので、生得的にシンプルな美しさをもっているわけではない。
響きの濁りをある程度許容しないとこれらのスケールは成立しない。
楽器の音の響きやメロディーの歌い方の綺麗さを純粋に追求していけば、純正律における「調和」を意識せざるをえない。
が、その場合、コンテンポラリーな語法そのものが立ち行かないのである。
ジャズの小難しいスケールは、いわゆるダイアトニック・スケールにおけるピッチのよさとトレード・オフの関係にある。
おそらくドレミファソラシドを完璧な純正律で弾くことに器楽能力を傾けた場合、オルタードスケールは弾けなくなる、はずだ。
クラシック上がりの奏者の中にはその器楽能力の高さの割にソロがダイアトニックから離れられない人がいるが、それはそういうことなのだろう。
もちろんメシアンを始めとする現代音楽まで時代を下れば、クラシックだろうが関係ないだろうけれど。
キース・ジャレットも、純正律調律のピアノで、よくわからないアウトスケールを弾いたりする。
全く……調香師のようなセンスがあるんだろうな。
つづく。
(2008くらい 初稿)
*1:2008年くらいのテキストです
吹奏楽の桎梏〜ブラバン出身プチ侍の行く末 その2
問い:中学・高校はブラスバンドでした。大学に入ってジャズがしたくてジャズのクラブに入りましたが、アドリブがよくわかりません。
どうしたらいいでしょうか?
前回の続きです。
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アドリブをするにはどうしたらいいかという話です。
本心からアドリブをしたくないという人は滅多にいないに関わらず、基本的にアドリブをしようとするトロンボーンの人はそれほど多くありません。
それは、アドリブソロが出来るまでに要する習得時間が長いこと、
トロンボーン「経験者」にはアドリブ以外にも十分「仕事」があるという事実。
またトロンボーンのアドリブは、サックスやトランペットほど需要がないことなどが原因だと思います。
トロンボニストの心性として独奏を好まない、ということもあるでしょう。
人は、自分が必要とされる場所でこそ頑張りたいと思うものです。
アドリブはトロンボニストが必要とされている場所に於いて必須のチケットでないことが多いのであります。残念ながら。
アドリブに関して、だから僕はあえて薦めはしません。
労多くして、功少なしという言葉も、あながち間違いではないとも思います。
しかし、こうした現状だからこそ、トロンボーンのアドリブは希少価値があります。
アドリブの効くトロンボーンはどこにだって重宝されます。
セッションに平気で出掛けるトロンボーンになるのは少数派ですが、あなたもそういう人になってはみませんか?
やはりジャズをやるんだったらそうしたアドリブの一つも出来た方がかっちょいいではありませんか。
自分の話
実は僕こそがこうした「経験者」トロンボーンの典型的な男でした。
しかもピアノなどの経験もなく、ヘ音記号しか読めないし、音感もない。
まったくアドリブに対してプラス要素のない状態でした。
当然才能もありません。
アドリブが出来るようになるまでに、僕はそれなりに苦労をしました。
その過程でいろいろ勉強もしましたし、逆にどういう練習がジャズに必要かということを学びました。
音楽的才能に関してはまったく冴えない私ですが、客観的に分析し言語化することに関してはそれなりの能力を有していると自認する私は、だからこそ新人のトロンボーン「経験者」が、アドリブのためにどう練習すべきかということも他の人に比べるとわかっているつもりです。
間違いなくいえること
少なくとも、練習方法を変えることが必要です。
変えないまでも、プラスαでバップイディオムに必要なトレーニングをするべきでしょう。
日本のブラスバンド部の練習方法というのは驚くほど均質化されています。
これは若年の段階からとりあえずアンサンブルに参加させることを主目標に練習させるからです。
軍隊教育と一部似通っていますが、基本的にブラスバンドの教育とは量産型志向=マスプロ志向であって、プロトタイプ志向ではないのです。*1
だから中高の吹奏楽部では、まず型にはめること、型に従って吹くことがまず要求されます。
音楽の理論的なアプローチは、重視されません。
「音楽家=Musician」になることではなく「演奏者=Player」になることをまず求められるからです。
アドリブをするためには、やはりMusicianになる必要があります。
でも、大抵の『吹奏楽部経験者』は中高時代の演奏者を育てる練習方法から発展することが出来ず、過去の成功体験にひきずられて、質的な飛躍をしないままずぶずぶと埋もれていくことが多いのです。
「経験者」は今までの練習方法にこだわります。
人は成功していることに固執するからです。
経験者は楽器をコントロールする点において初心者よりは優れており、そのために初期段階でアドバンテージを得ることが出来ます。
その中途半端な「成功」がその後の練習方法のブラッシュアップを阻んでいる事例を幾度か目にしました。
もう一度いいましょう。
練習方法を変えることが必要です。
数学ばかり勉強しても日本史は出来ません。
楽器を鳴らすことに関しブラスバンド的練習に間違いはありませんが、そればっかりやっていても決してアドリブは出来ません。
少し、内容が重複しますが、まず「音感のトラブルシューティング」をみて下さい。
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もし君がアドリブをやりたいのにアドリブの出来ない人間であれば、この中のパターンのどれかに当てはまると思います。
勿論、それによって解決策は異なります。
必要なトレーニングをやれば、でも「センスがない」といわれることはないと思います。
(2008年初稿 2019年改稿)
吹奏楽の桎梏〜ブラバン出身プチ侍の行く末 その1
問い:中学・高校はブラスバンドでした。大学に入ってジャズがしたくてジャズのクラブに入りましたが、アドリブがよくわかりません。
どうしたらいいでしょうか?
という身も蓋もない仮想質問を考えてみました。
このような疑問を持っている人は*1、全国に1万人はいると思われる。
言い過ぎかな?
しかし、いろいろな地方の大学生と話をしてみても、このような質問が最も多かったのは確か。
この質問の困ったところは、個人差がありすぎ回答する幅が多岐に渡りすぎること。
そしてもっと困ったことに、質問した人も漠とした現状に対する不満と、しかしそれに対する具体的な解決策がでないゆえのいらだちがこの質問の根底にあります。
現状認識
ここからは回答の幅を狭めるために、トロンボーン限定のお話。
どうしたらいいか?
じゃぁ、どうもしなければどうなるのでしょうか?
仮定のおはなし:
もし、あなたのいるジャズ研だか軽音にフルバンド(ビッグバンドとも言う)があった時は、きっと経験者のあなたはそういうフルバンドに所属するでしょう。
フルバンドは忙しいです。
きっと充実した大学生活が送れることでしょう。
ぱちぱち。三回か四回生にもなればソロの一つや二つ割り当てられることでしょう。
が、これまた基本的な楽器の素養が出来ているあなたは猛練習の挙げ句、オリジナルの超絶技巧のよくわからないソロをコピーしてこなします。
当然、みんなの尊敬を集め拍手喝采。
自分のやり方は間違ってなかったんだ……という瞬間です。積極的なあなたはコンボ活動にも精を出すかもしれません。
熱心なトランペットやサックスの同回生に誘われてMessengersのコピーかなんかをやります。
経験者のあなたは、きちんとコピーをして、自分の持ち場をしっかりつとめあげます。
ぱちぱち。フルバンで山野にでたりします。
定期演奏会のコンボのバンドでそれなりに充実した大学生活を送ります。
四年間はあっという間です(時には5年間だったり6年間だったりしますが)。
ついに卒業です。楽しいクラブ生活だったと思います。
彼女(もしくは彼氏)も出来たし……
でも入学当初に考えていたのと何かが違うような気がします。
アドリブ?出来たらいいけどねぇ……
と卒業を間近に控えたあなたはアドリブの事を考えると心がざわりと粟立つのを感じながらも、かわいい後輩に見送られ幸せにクラブを去ってゆくのでした。
はい、これが大多数の「経験者」トロンボーンの人の、大学ジャズ研生活における行く末でした。
だいたい70%以上の人がこういう経過を辿ります。
しかもこれはこの路線においてまずまず成功した部類です。
芽が出ない人、ドロップアウトする人も多々ありますし。
トロンボーンで入部した場合、アドリブをしなくてもクラブ生活を忙しく過ごすことは十分可能だという驚愕の事実があります。
こういうフルバン的な小仕事やファンクバンドのバックなど、ホーンセクションとして必要とされる仕事はいくらでもあります。
つまり他のパートに比べてアドリブに対する絶対的な希求度がない。
だからアドリブに真剣に取り組まなくてもクラブ生活が送れてしまうというわけです。
また、基本的にトロンボーンのアドリブは
難しい。
難しい割に報われない。
見本が少ない。
という欠点を有しています。
やらなくてもやってけるし、やっても困難だし、報われないということでは、アドリブに向かわないのも当然ですよね。
実際殆どの(特にブラスバンド経験者の)トロンボーンの人は一度ならずアドリブに取りくむものの、そのとりつくしまのなさに密かなる撤退をすることが多いです*2。
結果的に、きちんとアドリブソロに到達するトロンボーン人口は非常に少ない*3。
(サックス・トランペットでも同様の傾向はありますが、やはりトロンボーンの場合こうした人の方がむしろ多数派を占めているという点が特徴的ではないでしょうか)
だが、吹奏楽部にいるのではなく、ジャズのクラブにいるということを十分すぎるほど自覚しているこの人達はやはりアドリブに対する憧れはあるわけで、結果として妙な屈折を呈する場合も少なくありません。
こんなのいや?
じゃあどうしたらいいでしょうか?
(その2に続く)
コードの理解 その5:まとめ
コードの理解 その1:アベイラブル・ノートスケールの陥穽 - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その2:圧縮・展開について - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その3:コードを複雑にする理由 - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その4:ドミナント・モーション - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その5:まとめ - 半熟ドクターのジャズブログ(←Now!)
さて、1〜4まで、コード進行についてつらつら述べてきました。
といっても、コード進行の「あり方」というものを示しただけです。眺め方、とでもいいましょうかね。
理論的な飛躍
本来、「ドミナント(V)」→「トニック(I)」の解決感は、一つの調性の中に限定した話のはずでした。
バップ技法の革新的な所は、このⅤ→Ⅰの流れを、いついかなる場合でも使用したことです。
元々の曲の調はともかく。
無視して。
この瞬間だけはキーが変わっていると考える。
例えば、Cの調性の曲の中にGmaj7があったとする。そしたら、そこだけmajor Gと考えてみようよ。そうすると、その前にAm7-D7が来るよね。
じゃあそれをGの前に埋め込んでやろうよ、え?もとのCの調性との折り合い?
そんなん知らんがな。
と、そういう考え方です。
瞬間的にそのキーに転調していると考える。
そうして、しれっとツーファイブをそのコードの前に置いてやる。
つまり、コードの変化をミクロなレベルでの転調と考えて、一つの曲をミクロなレベルでの転調の繰り返しととらえるわけ。
「マイクロ転調」ですね。
そう考えると、ツー・ファイブをまるで万能調味料のように曲のあちこちに使って、曲を複雑化することができる。
そしてバップはまさにこの様にして曲の複雑化を行っているわけです。
マイクロ転調
このことから考えてもわかるとおり、バップ・イディオムは、どんどん転調を繰り返します。
その曲本来の調性(トーナリティー)」から離れるアプローチであるといえます。
バップ手法は、その結果、曲の調性(トーナリティー)から離れた自由なフレージングを手に入れることができました。
その代償として、一つの調性(トーナリティー)が示す安定感や統一感(トータリティー)*1を失うことになります。
バップ・イディオムは曲の構造を不安定化、抽象化させる方向に働きます。
初期のバップが、いわゆるスタンダードをひな形に、複雑化するという形でしか発展しなかったのも、おそらくこのバップの本質ゆえではないかと思います。
初期のバップ・ミュージシャンは原型がなければ自分らのスタイルを構築できなかった。
誤謬をおそれずいってしまえば、バップというスタイルは編曲技法に過ぎず作曲技法ではないということです。
モダニズムとの共時性
ちなみにこうしたバップの本質の背景には20世紀の時代精神が色濃く反映されているように思います。
絵画の世界などにも同様の変化が窺えるからです。
二組の風景画を提示してみましょう。レオナルド・ダ・ヴィンチとセザンヌです。
レオナルド・ダ・ヴィンチはルネッサンス期の画家です。彼の描く絵は単一の消失点を用いて極めて整合性の高い遠近法によって描画されています。
まるで写真をそのまま観ているかのごとくの写実性と統一感に満ち満ちています。
このArnovalleyなども、かなりラフにざざっと描きあげているのに、かなり厳密な遠近法で乱れがありません。
しかし、たとえば19世紀から20世紀初頭の代表的な画家であるセザンヌの技法は、もはや単一の遠近法には縛られません。
下の絵はセザンヌ『リンゴとオレンジ』です。
有名な逸話ですが、この絵のように積み上げられたオレンジは、安定せず、積み上げることはできません。
布のしわも、おかしい。
あり得ない形なんですね。
そういう点で、この絵はまるで写真のようなな、ダヴィンチのリアリティとはかけ離れています。
が、整合性よりも、回り込んで対象を視た時・触った時のリアリティを出すためにあえていろいろな視点からの見え方を混ぜて描いています。
一点透視図法の観点からは歪んでいるように見えるこの技法は、だからこそ物体の「リアリティ」に迫っているということです。
多視点から描かれた物体が一つの絵画の中で渾然一体としている。
視点の相対化が起こっている。
アプローチの点で多少の違いもありますが、ピカソのキュービズムなどはさらに先鋭的にそういうコンセプトを推し進めたものです。
* * *
バップの方法論の根底には、トーナリティーの相対化があります。
それは絵画技法における消失点の相対化と、本質的にはひどく似かよっている。
そういった現象の通奏低音として、19世紀から20世紀にかけての時代精神があったのではないかと僕は思っています。
ヨーロッパの古典芸術を頂点とした階級主義的な芸術史観から、文化相対主義的で複眼的な世界思考へ移行しつつある時代の、精神。
ジャズは典型的なクレオール文化に属するものですが、クレオール的であるからこそ、敗戦国日本で、一種の屈折した形で受容された。
これが日本の戦後ジャズ史における重要なポイントだと僕は思っています。
すみませんこれは先走りすぎました。またどこかでまとめて書きます。
最後に
最後はなんか妙な思いのたけをぶちまけるページになってしまいました。
まあ、イメージは大事です。あくまで、この章はイメージが喚起できればそれでいいと思います。
まとめ:
- スタンダードブックに書かれているコード進行は、あくまで一つの道案内にすぎない
- 書かれたコードは、流れを読むものであり、一小節一小節そのコードに厳密に制限されていて「正解」の音を鳴らしていくパズルではない
- 逆に書かれたコードから、原型になる曲の基本構造(単純な形)も透けてみることができる。そうした方が曲を理解しやすい。
- 書かれているコード進行は、発展させてよい。アドリブソロの中では特に。
では、こうしたコードを踏まえてどうフレージングをするか?
コード進行の発展のさせかたをどうやっていくか?
書いたコード進行と、実際演奏されるコード進行は、どのように折り合いをつけていくのか?
ということをこれから示していこうと思いますが、一旦この章は終わりです。
*1:ユナイティ Unityの方がニュアンスとして正しいでしょうかね…
コードの理解 その4:ドミナント・モーション
コードの理解 その1:アベイラブル・ノートスケールの陥穽 - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その2:圧縮・展開について - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その3:コードを複雑にする理由 - 半熟ドクターのジャズブログ
コードの理解 その4:ドミナント・モーション - 半熟ドクターのジャズブログ(←Now!)
コードの理解 その5:まとめ - 半熟ドクターのジャズブログ
前回のおさらいです。
- Bop-Idiomでは、フレーズのとっかかりを作るために、コード・チェンジを増やします
- 結果的にはコード進行が細かく複雑になります
- Bop-Idiomにおいてはコード進行が細かく変化するほうがソロをとりやすい
- 複雑に進行するコード進行を「コーナリング」するようにソロをとります
では、そのコーナリングというのが何かというと、これが、ジャズでよく言われる「ツー・ファイブ」とか、ドミナント・モーションというやつです。
ドミナント・モーションに関しては多くを説明しません。
セブンスコードは、増四度成分を含んでいるために不安定であり、それを解決させようという推進力があります。
あるセブンスコードに対して5度下のコードに落ち着こうとします。
つまり V7→I という進行が自然に生まれる。
この考え方を利用してやります。
曲の中にあるコード"X"(十じゃないですよ、エックスですよ)があるとして、それを無理矢理先ほどのⅠと考えてやりますと、そこから逆算してⅤ7というコードが浮かびます。このⅤ7のコードをコードXの前に持ってこれるんじゃねえか、と考えるわけですね。オチから逆算してボケを考える。
で、ツーファイブのツーことⅡm7ですが、これはドミナントモーションの延長です。Ⅱm7 - Ⅴ7 - Ⅰ のⅡm7はⅤ7に対しては5度の関係を有します。もちろん完全なドミナントほど強い力ではありませんが、Ⅱm7 - Ⅴ7 - Ⅰと自然に流れるわけですね。
Ⅱm7もⅤ7もⅠ(ルート)の調のダイアトニックコードであります。そういう意味でもⅡm7-Ⅴ7-Ⅰというのは非常にいろいろと都合がいいんです。多分、単純なⅤ7-Ⅰの流れよりもこのⅡm7を付けた方がいろいろなコード進行の処理としてもはるかに馴染みやすいんですね。
誰の仕業か知りませんが、うまいこと考えたものだと僕などはいつも思います。
で、このⅡm7 - Ⅴ7を、コードXの前に持ってくればいいんじゃねえの?ということで、ツーファイブという形になりました。
ちなみに着地点 Xのコードにもメジャー、マイナーがあります。結論だけ示しますが、着地がメジャーの場合には、Ⅱm7 - Ⅴ7 - Ⅰを、マイナーの場合にはⅡm7-5 - Ⅴ7 - Ⅰmを使う、と、とりあえずは記憶しておいて下さい(もちろんバリエーション、抜け道はいくつもあります)。
いずれにせよ、この
Ⅱm7 - Ⅴ7 - Ⅰ (X)
Ⅱm7-5 - Ⅴ7 - Ⅰm (X)
を、ある任意のコードXに対して、任意に使うことが出来る。
出来る……というか、使うわけです。
実例—ブルースの場合
ブルースに於いて、実例を示しましょう。
コードの理解 その2ではブルースのコードの「大きな流れ」を例として示しました。
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コードを単純化しても残っているコードの変わり目には大きな意味があります。
ドミナント部である9,10小節目は、ジャズでは習慣的にⅡm7 - Ⅴ7を置くことになっています。
ここでは、Fを着地点とするⅡm7 - Ⅴ7ですからGm7-C7です。
まあ、これはいわゆる「ブルース」のコード進行では V7-IV7-I7(C7→Bb7→F7)となってますが、このへんはジャズっぽい癖くらいに思ってください。本質的には同じです*1。
ドミナントの部位を、もとのものから変え、それでも残っているコードの重大な変わり目を緑の線で表しました。
4-5小節目、6-7小節目、8-9小節目、10-11小節目ですね。
ところで、12-1小節目にも緑の線が入っています。これはなぜでしょう?
ワンコーラス終わり、頭に戻るわけですが、そうなると、11小節目~4小節目までトニックのFが6小節連続することになります。
あまり同じコードが続くのはソロしにくいので、ここでコーラスの頭にもどりますよ、というしるしを作ります。
頭のコードのきっかけを出すんですが、これをTurnbackといいます。
で、この緑の線の部分=コードの繋ぎ目をいじってみましょうか。
まずは5小節目。
4小節目はもともとFで、5小節目でSDのBbへ変化します。
この変化をうまく使うため、5小節目のBbを着地点として、Ⅱm7 - Ⅴ7を作ります。
Cm7-F7-Bbとなり、これを4小節目に置いてやるわけ。むにゅっと。
次に8小節目です。
DominantのGm7へ行く直前ですが、ここを、強引に、9小節目のGm7をルート=着地点となるツーファイブを考えてやります。
マイナーなので、Ⅱm7(-5) - Ⅴ7 - Ⅰmとなり、これをむにゅっとあてはめてやる。
いわば、ツーファイブを二階建てで重ねてやるわけですね。ちなみにこの二階建てはよく使う手法で「3-6-2-5」(さんろくにいごと、そのまま読みます)と呼んだりもします。
そして、最後に12-1のTurnback。
ここは、単純にFに帰ってくるII-Vということなので、Gm7-C7を置いてやります。
先ほどの3-6-2-5を中途半端に適用して、F-D7-Gm7-C7という進行で書かれることが多いです。
(実際に演奏する場合は相当のバリエーションがある)。
さて、ここで、最初にもどって、原型である単純なコード進行と、ジャズのコード進行とを比較してみましょう。
劇的ビフォアーアフター
コードの圧縮/展開のかなりの部分がツーファイブ一つで説明できる事がわかりますでしょうか。
ま、もちろん現実にはツーファイブですべてのことが説明できるわけではありません。
若干の補足をしますと、
・2小節目のBb7:同じコードが続くのを回避するためにSDなどの弱いコード進行を入れて軽く変化を付けている(逆にいうと、バップではたかが3小節くらいの同一コードも耐えられないということです)
・6小節目のBdim:パッシングディミニッシュ。コードをスムーズに繋ぐために用いられるバリエーションの一つ。
も付け加えて、完成*2ということになります。
しかし、ツーファイブをあたかも「万能調味料」のように使うだけで、ここまでコードを複雑にすることが出来る。
逆にツーファイブで装飾されているコード進行をはぎ取ってやれば、原曲の単純な楽曲構造を推測することができるわけです。
コードの変化の緩衝材
前回コード進行を車のコーナリングに例えました。
直線→コーナー→直線というのがあったら、直線は直線、コーナーはコーナーと走るわけではありませんね。
手前の直線の終わりでは、十分に減速して、コーナリングのラインをとります。
クリッピングポイントについて、ベストのラインを取り、コーナーの出口が見えたらアクセルを開けます。
これら一連の動作は、すべて、コーナーの出口を抜けた直線の為の予備動作と考えていいはずです。
一連の動作は、すべてコーナーの出口、そしてその次に待っている直線のために逆算されて行われる。
ツーファイブも、そんなもんだと思って下さい。
ツー、ファイブ、ワン、すべてが独立したパーツと考えるのではなく、直線と直線の間のコーナーのようなものであると。
すべては一連のものとして繋がっています。
ツーファイブ・ワンというのは単独で存在しているのではなく、コードとコードの変わり目を「ならす」ためにあると思えばいい。
コードとコードをそのまま並べたら鋭角的な「角」があらわれるわけですが、そういう鋭角に、丸みをつけるというか、そんなイメージ。