半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

楽器の技量と音楽の技量と

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この前に書いたことと、一部似ているけれど。

そんなわけで、楽器の技量と演奏のパフォーマンスは必ずしも平行しない。

楽器がうまければ使用する引き出しも多く、サウンドをカラフルにすることはできるが、どうしてもおさえるべき部分は、ある種の覚悟のようなものである。

それは技量とは別の次元の心性で、その上部にある音楽性と、自分の中のアイデアを具体化するある種の覚悟のようなものだ。

今の自分の演奏に不満があるときに、それが、自分のアイデアを楽器に翻訳する段階に問題があるのか、それとも、そもそもアイデアそのものがまずいのかを分けて考えてみたらいい。

演奏がダサいのは、楽器がヘタなんじゃなくて、音楽そのものがヘタなことが圧倒的に多い。しかしこれは多くの人が(僕も含めて)認めたくないことだ。*1

窓ガラスを割らんばかりの圧倒的なハイトーン、口の中で万能ネギを小口切りにできるほどの鋭いタンギングを持ちながら絶望的にダサいアマチュアのアドリブソロを幾度聴いてきたことか。楽器のうまさに依拠する悪い例である。

そういう御仁はまるでちんぽの大きさのように楽器のうまさを誇示する。それが彼のアイデンティティの拠り所なので。ますます練習しより大きなリソースをそこに注ぐ。でもそれでは音楽は上手くならず、その結果が「まるで痛いだけのセックス」のようなアドリブだ。

こういう極端な例は明らかだが、誰しもこういう要素を持っていることを自戒しないといけない。人間うまくいってる練習は続けたいものだ。だって、気持ちいいからね。新しいことをとりいれると、最初は試行錯誤して、すぐ成果はあがらない。

「できる」人は「できない」練習をやりたがらない。

あるいは。「できない」人は「できる」練習しかしない。

これが、演奏の技量に束縛される現象だ。

* *

最近僕は、ピアノをさわっている。実は幼少の頃ピアノはやってなくて、大人になって始めたわけだ。

当然全然うまくなく、つたない自分の演奏に腹も立つのだが、しかし例えばセッションに参加すると、つたない技量の中で、微風ながらも起承転結やトータルサウンドに貢献しなければいけない。

そうすると、まるで「おやつは300円まで」の世界だ。乏しい引き出しをやりくりしないといけない。

だが逆にその「やりくり感覚」って、自分の一番得意な楽器を触ってるときには意識しにくいことなんである。着想の部分はどの楽器であれ共通する要素だ。

セカンド楽器のいいところは、自分の演奏技量のプライドの呪縛から解き放たれ、着想部分を純粋に考えることができることだと思う。

プロミュージシャンは鼻唄歌っても菜箸で机をチンチンやっててもかっこいいのである。*2

* *

別にセカンド楽器をしなきゃいけない、というわけじゃない。楽器の技量に依存していない部分、音楽のイデアを涵養しましょうという話だ。

ただセカンド楽器をさわると、その辺は割と明確にはなる。

着想のところはどんなに楽器をさわる時間が短くても関係ないわけで、時間のない社会人でもできないわけではないのだ。

*1:大体がジャムセッションにでる連中のほとんどが、学バンの中では「腕自慢」なほうだから、セッションにでるに必要な最低限の楽器の技量は持ち合わせていることが多い

*2:一流のプロの話である。音楽ってものをわかっている人は、やはり不慣れなデバイスでもかっこいい。