半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

ジャズの理論とは

(この記事は過去記事の再掲です。2006年)

 


問い:ジャズのアドリブをするためには理論がどうのこうのとよく言います。
だけど、本によって言ってることが全然違ったり、理論だけでは説明できないとか、理論を外れなければならないとか、はっきりいってわけわかりません。
ジャズをするために、本当に、理論は必要なのでしょうか?
そして、もし必要ならどの程度必要なのでしょうか?

 

 はい。
 この混乱はおそらく「理論」という言葉があまりに多くの意味を内包しすぎるために生じていると思われます。

 僕個人の意見としては「理論」は必要であるともいえるし、必要でないともいえる。

 

言語習得でアナロジーしてみる。


 これでは、まるで禅問答のようにも聞こえる。
 そこで、話をわかりやすくするために日本語にたとえます。

 もしあなたが、日本語を全く話せない人だったとする。
 日本語をまず話すなら「おはよう」「こんにちは」などの挨拶から始まるでしょう。意思疎通のための最低限の単語や短文。
 少し習熟すれば「今日は寒いですね」とか「庭の木が葉を落としてしまいました」など、ちょうど世間話のような簡単な会話を行い、自由度の高い意思表示を行うことになります。
 いずれにしろ言語は意思表示のためにあり、自由度の高い意思表示を行うためには修練が必要です。

 初学者のレベルは、いわゆる「ストックフレーズ」を憶えることから始まるでしょうね。たとえば旅行者用の英会話本とか、そういうやつ。英語が話せない人でも、そういうフレーズをいくつか憶えておくだけで、お店でのやりとりとかをこなすことはできますよね?

 但し、ストックフレーズにはない自分のいいたいことを言いたい時、あなたは文を自分の頭の中で構成しなければなりません。この時に必要になってくるのは、ある程度の文法です。文法の構造が理解出来ていないと、違和感のない言葉には辿り着けませんね。あなたが外国人で日本語を話したいのなら、そういう文法はあなたの頭の中には内在していないはずなので、日本語の文法についてレクチャーを受ける必要があるでしょう。もしあなたが逆に日本人であれば英語について同様のレクチャーを受けなければならない。

 これが「理論」です。
 「日本語の理論」とは日本語の文法なのです。
 というか、いわゆる「音楽理論」というのが英文法や日本語の文法と同じものなんですよね。

 そういう観点からは、「『理論』が必要か?」と言われると、まあ必要だ、と言えます。

しかし文法は万能ではない


 さて、あなたは村上春樹司馬遼太郎宮部みゆきなどの作品に出会い、自分も同じような小説を書きたいなと思ったとします。
 さて、このとき、何かよい理論があるでしょうか?

 そうです。村上春樹も、司馬遼太郎も、宮部みゆきも、誰も「理論」から外れた文章は書いていません。
 しかし、理論だけではこのような作品はかけません。
 言葉の海はあまりに茫漠としていて、その取捨選択には無限の組み合わせがあります。「理論」はその中で、「使ってはいけない」禁則を教えてくれるだけで、その他、無限にある「正しい」語句のなかから「一番ぴったりな一語」を選んでくれるわけではありません。

 おまけに、文章上のリズムや流れによっては理論的に正しくないとされる語句がふさわしいことさえあります。それは作者によって様々です。
 村上春樹には村上の、司馬遼太郎には司馬独自の「特別ルール」があります。村上のルールでは司馬の書き方は「理論的に」間違っているだろうし、逆もまた然りです。

 このレベルに関する「理論」というのはありません。おそらく理論はあるのだと思うんですが、それは多くの場合言語化されて共有されるものではありません。いくつかの特殊な例外として、歴史上の超有名な文筆家、ゲーテとか沙翁とか、そういった人物に関しては彼ら特有の文体研究などが為され、理論が定式化されていることがありますが。

結論


 そもそも「文法」というのは「禁則」を説明するのにしか有用ではありません。膨大な語から一語を選ぶ(ポジティブセレクション)ことに関して、理論はほとんどの場合何も教えてはくれません。理論というものがまだしも有用なのは、「間違った」風に聞こえる言葉が、どうして間違ったように聞こえてしまうか、つまり間違った言葉の選択(ネガティブセレクション)を説明する時だけです。

 我々は普段日本語を書くときに日本語の文法に縛られています。しかし日本語でものを伝えるときに文法に「制限されている」という感覚はうけません。それは「理論」がきちんと無意識下に内包化されているからです。しかし、英作文を作る際には我々は難渋します。理論が咀嚼されていないからです。このときには英文法に「制限」されているように錯覚します。

ジャズの理論とは


 いわゆるJazz理論といわれているものも全く同じように考えてよいと思います。コード進行などにより使う音、スケールなどにある程度の制限を受けますがそれによって自由が損なわれるわけではないのです。

 というわけで、ジャズをするために理論は「必要」だと、私は思います。
 しかし、意識下にのぼらないほど咀嚼されていることが必要でしょう。 

 言語化できる程度まで理論を理解する必要はありません。チェット・ベイカーは楽譜が読めなかったという逸話もありますし、そもそも、我々が日本語を喋るときに5段活用とかいちいち思い浮かべて話すでしょうか?また5段活用レベルの文法について詳しくしることが、人を感動させる文章を書くことにつながるわけでもない。

 自信をもって下さい。もしあなたがちゃんとジャズの唄が歌えている自信があるのなら、理論を頭で理解する必要はありません。
 ただ、もし一抹の不安があるのなら、そしてあなたに理数系の頭がちょっぴりあれば、理論をすこしさらってみると新しい発見があるかもしれません。