半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

ヒノテル問題の私感

私の立ち位置は、地方の中級アマチュアミュージシャン。プロとは時々絡んで演奏をします。日野さんとは地方のホールコンサートのあと地元に立ち寄ったアフターセッションで一緒に演奏させていただいたこともありました。COI(利益相反)はありません。

結論から言っちゃうと、

  • あれは体罰児童虐待の範疇ではなく、むしろパワハラであろう。
  • 日本の枠から飛び出してグローバルかつ自由なライフスタイルを獲得した日野さんが、日本的な体罰文化の文脈という矮小な視点で断罪されたことに、ボタンのかけちがいというか悲劇があった

と思っています。

事実関係:


2017年8月20日世田谷パブリックシアターで行われた中学生ジャズバンドの演奏中に日野がドラム担当の生徒に対して髪をつかんだあと往復ビンタをするという暴行をした。週刊文春は動画を入手しており、2017年8月31日に発売予定の週刊文春でも取り上げられ、TVなどでも報道され、物議をかもした。

 

中学生にステージ上で暴力をふるった、というのは間違いない事実であるが、
この事件を契機に体罰とか昭和オヤジ的な話になっているわけだが、なんかそれは違うとも思いつつ、モヤモヤ考えがまとまらなかったわけですけれども。いくつか自分の考えを述べてみます。長くなって恐縮です。

 

基本的に日野皓正さんは、格下には温厚。


日野さんが、レギュラーコンボの人たちには割と厳しくて、MCとかでも愚痴を言ったり、今回の事例にもうかがえるような、一部物理的な暴力を伴うディレクション(シンバルを蹴り上げたり)があるというのは、以前から聞いてはいました。
ただ、それは、あくまで自分の影響下の自分の認めたプレイヤーであり、自分のサウンドを共に創っていく仲間に限られること。
グループレッスンとかワークショップとか、子供を教えるような場では、基本的には温厚だと思います。
上にはヘコヘコし下には高圧的に接し体罰も辞さないという、日本のおじさんに昔よくいたようなタイプでは全くない。「中学生に体罰」という事実に脊髄反射的に寄せられた批判のほとんどは、そういう非難でしたが、日野さんはその枠では語れない。なにせ日本の枠に収まらずに飛び出した「世界のヒノ」だもの。

件の中学生については、ジャズ的な技術については相当のものがあり、日野さんも肩入れをして、どちらかというと近しい関係性であったということで。
 まわりの子どもたちからしたら、日野さんに目をかけてもらっている、認められてることは、その事実も実力も含め羨望の的であったことでしょう。結果殴られましたけど、そこまで濃密な人間関係を形成できるまで近接できているのは、まわりからみると特権的な立場でさえあるわけです。非常にパラドキシカルな話ではありますけれども。

事後の父子のコメントにも、そのあたりはあらわれているように思います。決して周りに言わされているわけではないと思うのですよ。

 

大人が子供に体罰を与える…?

 


そもそも中学生で実力のある人間であれば、ジャズ・ミュージシャンとしてはもう大人。
マイルス・バンドにトニー・ウィリアムスが加入したのは16歳の時でありました。幼少からジャズ専門教育を受けている人たちも増えて、最近は中学生くらいでプロに準じた実力をつけているものは決して少なくはありません。ジャズ界では、この年令は、昔でいう元服と同じで、実力が伴えば、一人前扱いを受けてもおかしくない。
だから、大人が子供に体罰を与える、という「児童虐待」という枠で考えるとおかしくなる。むしろパワハラ、という文脈で語られるもののように思われる。

 

では、メンバーであれば暴力は許されるのか?


日野さんが自分のグループのメンバについて、わりと「キツい」というのは業界でも有名な話ではありまして、それは、今の水準でいえば、アウトであるっちゃあアウトでしょうね。ここは難しいところで、日野さんを擁護したい人たちも、完全に容認できない最後の一線ということになるでしょう。

30年前は当たり前のことは、今ではダメになっている。タバコに関することも、たとえばセクハラ的な言辞などに対することも、昔は大らかで(大らかというのは少し語弊があると思いますけど)はありました。

日野さんも海外での生活も多いし、いわゆるサラリーマン的な社会人生活とは無縁の方ですから、そのへんの時代の違いについて鈍感だった可能性はある。

うーん、じゃあ日野さんがあかん、で終わっていいのか、といわれると、個人的には疑問に思っています。

今ジャズって、学校で教わったりするようなもんになっていますけど、基本的にはショウビズであり、めちゃめちゃ社会のロウな部分のものだし、黒人のジャズメンは公民権を勝ち取るまではきっちり差別されていました。マイルス・デイビスだって、ナイトクラブでスター気取りなのに、店をでたら白人の警官に「ボーイ」呼ばわりされて警棒で小突かれたりが当たり前だった、という屈辱的なエピソードを回顧しているし、暴力、ドラッグ、酒、女、そういうありとあらゆる非教育的な混沌と猥雑から醸成してできた音楽がジャズなわけです。
アメリカに渡ってそういうジャズの中で揉まれてきた日野さんって、多分、今自分やっている態度の100倍くらいひどい目に遭っているはずなのよね。

いつしかジャズは文化的なスノッブなものになりました。昔からそうなんですが、往時は聴き手と演奏家の間にかなり懸隔がありました。生身の演奏家に接するのは、東京に住んでいる文筆家・文化人とか特権的な一握りの人たちだけでした。今ではミュージシャンとの物理的・心理的な垣根はどんどんなくなっています。我々アマチュア・ミュージシャンも、プロとアフターで接したりしていますし、たとえばプロが地元のアマチュアミュージシャンにやるワークショップとか、大学でジャズマンが教えてたりとか。

今のジャズは、基本的にはそういう猥雑なものがクレンジングされて、市井の一般人がアクセスできるものになっていますが、そこには多分功罪がある。本来のジャズはもっとデンジャラスなものでありました。僕たちはそれを忘れすぎてはいないか、と思います。
僕たちは動物が檻に入れられて無害化している動物園だと思って接しているけど、昔気質のジャズ・ミュージシャンなんて、鎖につながれていない野生獣でしかるべきであるわけで。そして日野さんはそういうジャズ文化の最後の世代に属していることを忘れちゃいけない。

だから今回の一件で、日野さんには「Genuine Jazz Musician」と刻印して、売り出したらいいんじゃないか、とさえ思う。もちろん逆説的な意味ですけれどもね。

んで、最近の若手はそういうクレンジングされたところからジャズの世界に入っていきますけど、実力の階梯を登るにつれてリアルのショウビズ界の理不尽な洗礼はどこかで受ける。そういう人に対して、多少手荒ではあるけれども注意する、というのはやはり誰かがやらなければいけないことなのではないか、とは思いました。
実は殴ったりするのって、責任も引き受ける事でもありますから。やんわり「次はあの子呼ばないで」とかいう風になる方がよっぽどきつい。でも多分大半はそういう反応なわけですから。

 

以下Web上でみられた論に対する個人的な反論:

 

公衆の面前で叩くなんて…


じゃあ、まあ、バックステージだったらいいの?
むしろ陰湿でしょ?
この人が教育専業の人で、体罰が常習化しているなら、きっとバックヤードでネチネチやるでしょうね。その意味では日野さんの行動は大変正直。バカ正直といってもいいかもしれない。
多分正解は「スタッフに引きずり降ろさせる」だと思う。ステージ上で衝動的に暴力を振るったということはやっぱり非難されても仕方がないことでしょう。

 

ヒノテルなんかジャズの歴史に一切関与していない、こんなやつなんか聴く必要ない

大した音楽家ではないですよ(太田光


うーん。私もヒノテルの音楽はそれほどは聴きません(アルバムはいくつかもってます)。しかし日野皓正のバンドのメンバーは逸材ぞろいで、卒業した人も含めると日本のジャズシーンでは無視できない影響力があります。もちろん日野さんのバンドに入りさえすれば実力が形成されるわけではなく、多くは当人の努力で実力を獲得したものだけど、マイルスに似て「ヒノテル・スクール」の経歴は、一定以上の質の保証になっていることは事実でしょう。
それから、一旦ジャズの本流が滅びた80年代以降の今のジャズは、ある種歴史のない時代といえます。ジャズ史の多くはそれ以前に形成されたもので、日野皓正がその歴史の中に入っていないのは、仕方がないという気もする。

 

暴力を振るうのではなく、音で黙らすべきではなかったか


うーん。フロントの立場で、暴走したリズムセクションを自分のプレイで引き戻すのは、基本的に無理です(ロストしている場合は別)。あとこれビッグバンドでしょ?コンボならともかく、大きいバンドは、一旦サウンドがばらばらになったら、破綻なく復調をさせることはなかなか難しい。
こういう場合は、欧米では”Stroll”というマジックワードがあって、それがディレクターから発せられると、舞台から去らなきゃいけないんですって。教則本にも「君たちが余計な音をだしてStrollと言われないことを願っている」とか書かれてた。
強制終了スイッチが壊れてたら物理的に止めるしかない、というのはしょうがないのかもしれない。