コピーの功罪
問:アドリブのソロに関してです。
「コピーは絶対にしたらいかん!」と言われる先輩もなかにはおられます。
私自身はした方がいいと思うんですけど……。
そもそもアドリブというものが必要なのか、という問いは、以前の質問を見て下さい。
jazz-zammai.hatenablog.jp
この質問は、むしろそれとはさらに逆、つまりインプロヴィゼーション原理主義のような人から発せられた感じですね。
インプロ至上主義というか、ね。
えーと、もし、こう言っているその人があなたの憧れ的な人(恋愛的な文脈ではなく)であり、あなたにとって絶対的な価値観の評価軸になっているのなら、その人を信じてついていけばいいと思います。
以上、回答おわり。
* * *
それ以外の人には代わりに僕が答えましょう(笑)
僕は『アドリブのコピーはした方がいい派』です。
でも、なかには、「アドリブのコピーをすると折角自分のもっている良いところをなくしてしまうから」とかいう理由でアドリブのコピーを好まれない方もいるようです。(フリージャズの名残なのかな?)
というか、これはおそらく言い方の問題で「コピーしたアドリブを人前で吹くべきかどうか」という問題ではないかと思います。
もし、そういう問題であれば、僕も無条件で「はい」とは言えません。
まずは字義通りに受け取って考えましょう。
アドリブのコピーそのものが悪いかどうかです。
オリジナリティ?
自分のなかにあるものをつきつめて、そして作り出したものは、確かに自分オリジナルと言えます。
ただ、無意識下の影響というものもある。
「十分に外界と遮断された環境」という付帯状況は必要かもしれませんが、
確かに自分の中で産みだされたものは、オリジナルと言っていいかもしれない。
しかし、あくまでそれは自分自身にとってオリジナルというに過ぎず、それが必ずしも世間にとって新しいものとは限らないわけです。
ある男が山に籠もって数学の理論を長年研究した。
そして独自に二次方程式の解法を発見した。
意気揚々と山を下りて見ると中学生でも教科書で教わる内容だった、という寓話があります。
「自転車の再発明」という言葉も有名ですね。
人の想像力などたかがしれています。
純粋に自分の中からオリジナルに生まれてきたものだからといって、それが必ずしも社会的にもオリジナルになりうるとは限りません。
すでに誰かが見つけていたり、もっと悪いことに複数の人間の手で洗練された形に発展されたりということはあるわけです。
現代は、こうした情報の洪水と無縁ではいられない、厄介な時代だといえます。
ジャズにおいても然りです。
ありとあらゆる音楽的な可能性は、さまざまなミュージシャンによって試行錯誤されています。
一見フロンティアに見える領域も、大抵は先人の通った道です。
特にジャズには理論的イノベーションに対して強迫的な傾向があります。
例えばボイシング一つとっても、順列組み合わせで表されるすべての可能性は試されているといっても過言ではない。
* * *
で、実際のところジャズミュージシャンのインタビューなど見ていると、若いときにはだれそれのコピーをしたとかそんな話よくでています。
実際にプロの殆どはそうやってプロになっている。
だからアドリブのコピーが悪いはずはないんです。
少なくとも、完全にSelf-madeで上手くなった人間というのは殆どいません。
オリジナリティというものをきちんと打ち出すためには、それまでに世に出たスタイルというのを踏まえておかないと、そもそもそれに客観的にみてオリジナリティがあるかどうかもわからないわけです。
ただ、それは、先達のやったことに盲従しなさい、とか、
先達のスタイルを、取り入れましょう、ということではありません。
先達は、ある程度試行錯誤して現在のスタイルにたどり着いた。
その結果をパクるのではなく、可能であれば、そのプロセスをパクりたい。
どういう風スタイルを洗練させていったのか、その思考過程と、スタイルの模倣と融合の過程、そういうどうやって新しいものを産み出したのかが見えると、それを自分にも適用することができると思いますから。
コピーを人前で吹くことについて:
ちなみに、他人のコピーを、人前で吹くべきかという話なら、これは明らかに、ノーです。
一つには、別の人間の作ったソロは、完全にコピーすることは出来ないからです。
この辺に関しては、「コピーフレーズについて」で触れました。
jazz-zammai.hatenablog.jp
また、仮に完全にコピーすることが出来ても、譜面になったものを吹く行為と、アドリブでその場でフレーズを組み立てるという行為は、そもそも本質的に違うものです。極端な話、たとえそのソロが譜面としては同じものであったとしても、奏者の意識は全く違います。
コピーしたソロを吹くことは、前提として無時間的な地図=譜面を再現する行為です。
譜面には時間はありません(というか、時間を含んだ存在です)。
すなわち、コピーしたソロを吹いている時、我々は、クロノス的な要素を放棄した、無時間いや超時間的な存在、いわば人間を超えたなにかになっている*1ということを意味します。コピーしたソロがしばしば不自然なのはそのためです。
コピーをするのは、そのソロの奏者が、どう考えてソロを組み立てたかを理解するためです。
自分の頭の中でソロを組み立てようと思っても、最初はどうしていいものかわかりません。
コピーをする事で、ソリストがどのように考えてソロを吹いているのか、という一端に触れることができます。
要するにコピーをするにしても「指」をコピーするのではなく「脳」をコピーしないといけない。
免許取り立てのドライバーが、遠くを見ずにハンドルの手元近くしか見えていないのと同様、訓練していない我々は、いきなりアドリブをしようとしても今吹いている所しか把握できません。それこそソロのなかでの大きな流れや起承転結に留意するなんて無理な話です。
上手なソリストは、広い視野を持っていてこういったソロの大きな流れを踏まえた上でソロを作ることが出来る。
もちろん局所局所の、音の使い方、フレーズのしまい方も、意識が行き届いています。とても参考になる。
よいソロをコピーするということは、こういった上手なソリストの意識をなぞってやるということです。
決して音をなぞるのが目的ではありません。
そして、これまた逆説的ですが、もし十分な練習の果てに、上述したような奏者の心理的な状況まで理解出来る段階までコピーすることが出来れば、そのコピーしたソロを吹く際に生じる不自然さはなくなります。
読書百編意自ずから通ずという言葉に、少し似ていますね。
しかし、この段階まで到達している場合、多分自分でアドリブが作れるようになっているはずです。
これも一つの逆説です。
コピーしか吹けないような状態で、コピーしたソロを吹くという行為がよくない理由がわかりましたでしょうか?
(2007 初稿をリライトしたものです)
*1:もちろん、「もし今吹いているソロが、アドリブで吹いているのであれば」という前提条件での話です。コピーしたソロというのは、所詮コピーしたソロのようにしか吹けないのです。