半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

セッションにはいくべきなのか? その2

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前回の続きです。
jazz-zammai.hatenablog.jp

その1公開のあと、色々友人の皆さんに意見をいただきました。

その1では、とりあえず、独習のアドリブソロに関する成長という視点に限った話だったわけですが、
やはり、セッションにはそれ以外にもいろいろな効用がある、ということを再確認しました。

セッションはアンサンブルの練習の機会である

フロント楽器は特にですが、練習は家やスタジオなどの場所で、独りで行うことが多いものです。
その時は、アカペラで楽器を吹くか、メトロノームでリズムをキープするか、マイナスワンのバックトラックを流すか、いろいろでしょうが、基本的には独り。
しかし、他の人と合わせることは、それとは全く別の行為です。
どのように合わせるか、リズムセクションとどのように合わせて演奏するかは、実際に合わせてみないと勘所がわからない。

ジャズで必要なのは、独語ではなく、会話です。
もちろん、きちんと会話をするためには、独習が不可欠です。それが練習ですよね。
でもそもそも会話をしないと会話はうまくなりません。

誰かに師事している場合でも、先生と演奏するっつっても、二人ですからね。
複数の人数が同時に音を出している場での経験は、また別に積まなければいけない。
バンドを組んでやればいいけど、初心者同士で組む場合、誰もあるべきサウンドの形をわかっていないから、必要なエッセンスが得られない、なんてこともよくあります。

その点、セッションなら、ホストは中級者以上の人がやっているので、アンサンブルの質は最低限保証できます。

セッションでの演奏は、個人練習が主な人にとっては、貴重な経験になります。
セッションで得られる環境を独力で達成するには、結構な人脈とお金がかかりますからね。
セッションはもっともコストパフォーマンスにすぐれたアンサンブルの場だといえましょう。

セッションは即興のアンサンブルの中で起こるさまざまな不確定要素を察知し、修正する経験を得る場所である

グループレッスンで、キメキメのバンド演奏をやる、というパターンはともかく、セッションでは多くの場合その場でメンバーを決め、構成などもその場限りで決定されることになります。*1
ある程度不確定要素をはらんだまま漕ぎだす、というのはジャムセッションにおいては、当たり前のことです。

普通のジャンルのバンドだと、そういう不確定要素は練習を繰り返してつぶしてゆくのが普通です。
しかし、ジャムセッションにおいては、一度きりなので、そういうアプローチはできない。

ではどうするか?
基本的には、不確定要素を出さないようにすること、共演するミュージシャンに自分の意思を伝えるようにすることです。これも一見難しいように見えますが、慣れでなんとかなります。
また、他の人が撹乱してしまった場合に、事態を収拾する力を身に着けることです。
優れたジャズミュージシャンは、自分以外の人が予想外の音を出しても動ずることがなく、その人に寄り添いつつ、自分求めている音へ近づけてゆくコントロール能力を有しています。
ラリードライバーのように、路面がどうであろうと、車をコントロールすることができる。
こういう能力は、ある種の瞬発力だと思いますが、やはり不確定要素がある演奏場面で培うしかないわけです。
このあたりの機微も大変面白い話ですから、機会があれば、また別項でとりあげてみましょう。 

セッションは仲間を見つける場所である。

ジャズにおいて、バンドメンバーをさがすのにはどうしたらいいでしょうか?
ロック・ポップスだったら、ライブハウスで「メンバー募集!」みたいなのが壁に貼ってあったりします。
それをみて、電話かメールして、みたいな感じだと思いますが、
ジャズでは、そもそも「バンド」という形をとることが少ない。
個人で動いている人がほとんどで、「バンド」単位での動きはあまりないですね。
ではどうやって共演者をピックアップするのはどこか、というと、やっぱり多くはセッションなんですね。

だから、セッションにはドラクエでいう『ルイーダの酒場』みたいな役割もあります。
卒業して、もしくは転勤で今まで住んでいたところから離れてしまった場合、セッションなどに顔をだして、自分にあう実力の人と知り合う。何度かセッションでご一緒して気が合えば、単独のライブのサイドメンという形でお声がかかるかもしれませんね。
また、随分昔に共演したことある人と、別の場所のセッションでたまたま出会ったりすることもあります。
こういうのもセッションの醍醐味ですね。

*1:初心者で、そういう構成変更への対応力がない場合は、ご自分で指定して他の方に合わせてもらうことになります。別にすべての曲でそういうことをしなければ、問題ないはずです

フレーズの技巧について To use too much technique for phrasing

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 よくできた恋愛ものの映画を考えてみよう。
 フランス映画のような奴をね。

 バーで・街角で、花屋の店先で。
 男と女はいろんな言葉のやりとり、恋の駆け引きを繰り返す。
 研いだばかりのナイフのような鋭い言葉、
 もぎたてのトマトのようなみずみずしい言葉、
 悪臭を放つ言葉、
 キスよりも甘い言葉、
 そして希望に満ちた言葉。

『名台詞』ってのは大体こういう場所で生まれる。
オリジナリティあふれる文学的な表現というのは映画の脚本においては欠くべからざるフレイバーである。

最近知った話でありますが、昔のフランス映画には、台詞だけを扱う「会話脚本家」とでも言うべき人がいてオサレ気な台詞を練り上げていたらしいです。
 さもありなんですね。
 だが、あくまでフレイバーはフレイバー。
どんなに小粋な台詞のやりとりがあっても、その台詞のやりとりの落ち着く果ては
「I Love You」だったり「I Need You」だったりする。
 そう、がっかりするほど平凡な。
でも、一番伝えたいところはやっぱり「I Love You」だったり「I Need You」だったりするんだな、これが。

* * *

僕らはプロミュージシャンが演奏した録音を聴き、そのフレーズをコピーしたりそのソロのアナリゼを行ったりする。
フレーズをコピーする際、理論的に難解な箇所、ひねったフレージングなど、とかく小難しいところに僕らはついつい目を奪われがちだ。

しかし、そういう聴き方から離れて、ソロの流れ、起承転結に心をゆだねてみよう。

そうすれば、実は、一番盛り上がっているところは小難しいフレーズを刻んでいるところではなく
「ぎょえ~~」と高音でシャウトしているところだったりする。

譜面に落としてみると、その場面には確かになんの面白みもない。
が、そのソロでの中心部はやっぱりそこに間違いないのだ。

逆に言うと、譜面の音韻情報以上の何かを、そこではミュージシャンは演奏にのせている。
それこそが自動演奏機の発達した現在、ミュージシャンの存在意義と言ってもいいかもしれない。

* * *
 
「I love You」を効果的に言うことが出来るSituationに持っていくことも難しい。
それこそがフレーズの技法であり、リテラシーが要求されるところ。

しかしその段階を超えて「I love You」といわなければならないところできちんと「I love You」と言うことは実はそれ以上に難しいことである。
バップの技法だけを修練し、そこができていなければ、もじもじと何をいっているかよくわからない、はにかんだソロになってしまうだろう。

セッションには行くべきなのか? その1

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問:ジャムセッションにはどんどん参加した方がいいんでしょうか?

先生に習っているある人の話です。
ある先生は「コピーしてそれをセッションに吹きに行くのだったら意味がないし、わかってない状態でセッションに行っても技術は向上しない」と、セッションに出ていくことをあまりお勧めはしない意見だったらしい。
ただ、別の先生は「どんどんセッションに出て行って、知らない曲でもどんどんやって、恥かいた方がいい」とも言われた、ということなんですよね。

どっちがいいんだろう?
果たして、セッションには出た方がいいのか、出来るまで出ない方がいいのか?

泳げないうちから水に突き落とされて這い上がった者しかいない事実

実際、何らかの形でジャズにかかわっている管楽器奏者*1の中で、アドリブをどんどんやってジャムセッションにもどんどんいけちゃう人は一握りです。
jazz-zammai.hatenablog.jp
jazz-zammai.hatenablog.jp
吹奏楽部出身者からジャズプレイヤーになかなか育たないな…ということも以前書いたことがありますね。

* * *

社会人になっても音楽を続け、セッションに参加するフロントプレイヤーを見渡してみると、
泳げないうちから水に突き落とされて、そこから這い上がってきたような人。
結局そういう人だけがセッションに参加し続ける、という厳然たる事実があります。

アドリブなんてね、最初は出来ないもんです。当然。
そして、耳の方が自分の演奏力よりもたいてい肥えているのも事実。
自分の演奏が、不完全でしょうがない。情けない。
出来る、出来ない。どっちかっていえば出来ない。
まー、そりゃ傷つきますわ。

「もうちょっと出来るようになってからセッションに行こう」という考え。
これは一見、対して悪くないアイデアに見える。
その心情もよく分かる。
誰だって恥はかきたくないしね。

が、自分の主観の「できる」「できない」なんて、出来ない人間が決められない。
出来ないうちにセッションに行けるかどうか、思い切って飛び込めるかどうか。

やっぱり、ここがセッションで楽しく演奏するようになる第一歩ではないかと思います。
何事もそうです。ナンパ*2も、英会話も、しり込みしている状態から「えいやっ」の瞬間が必ずある。

そこの部分を超えられないと、いつまでたっても、できないままです。

ビジネス用語的な説明

ということで、とりあえず、まずしてみるのが大事です。
先輩の立場からいうと、とりあえず水に突き落とす。
つまり、セッションに誘って、とりあえず、させてみる。
もちろん溺れそうな人にはフォローしますけどね。*3

これって、めっちゃ「精神論やん」と感じられるし、実際僕もそう思っていました。
が、いわゆるビジネスパーソン的な思考で考えると、単なる精神論とは言えないな、という風に最近思うようになりました。

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PDCAサイクル
ビジネス用語で、PDCAサイクルっつーのがありますね。

  • Plan
  • Do
  • Check
  • Action

の4項目。最近はOODAとか、別の問題解決のコンセプトもありますが、まあ大体はPDCAで説明はできる。

PDCAで重要なのは、このP→D→C→A、さらにAから次のPへと、どんどんアップデートしてゆき、このPDCAの環をぐるぐる回すことが大事なんですよね。
一つのフェイズ、たとえばPlanにいくら時間をかけても、成長しません。
Plan Do Check Actionの PDCAサイクルをまわしていかないと、成長はしないわけです。

この考え方を取り入れますと、「とりあえずセッションに参加する」というのは Do!に当たるわけです。
出来るようになるまで、じっくり練習して(Plan)→参加する、というやり方は、PDCA的なマネジメントではない。
むしろ、とりあえず最低限練習して(Plan)→参加する(Do)。
そして、終わった後で、自分の演奏のどこがいけなかったのか、改善すべきところはどこか(Check, Action)を抽出して、それを克服するための練習メニューを考える(次のPlan)→ ……
という風に、やって失敗して、ダメなところを直す、という風にした方がおそらく成長につながると思う。

セッションにいって、いまいちな演奏だけど、反省しない(P→Dどまり)だと、意味はないですけどね。
「とりあえずやる」は、根性論ではなく、PDCAサイクルの必須なステップと考えればいいと思います。

アウトプット

インプット・アウトプットの法則からいっても、
インプット3:アウトプット7くらいがいいらしいですね。
そういうのからいっても、ジャムセッションでとりあえず演奏してみるのを優先させた方がいい。
その方が、伸びると思います。

まとめ:

というわけで、セッションには参加した方がいいです。ただし、Check, Actionを忘れずに。
「振り返り」のために、最近は気軽に録音できますから、録音して、聞き返すことが大事かもしれません。
たぶん、家で「うわーっ」って叫び声をあげることになるとは思いますが。

注:
以前に私は、練習におけるPDCAサイクル
jazz-zammai.hatenablog.jp
というものを書きました。この時は、

  • Plan:現状の評価と練習計画の策定。
  • Do:練習(コピーをしたり、アナリゼをしたり。含セッションでの演奏)
  • Check:問題点の再評価
  • Action:演奏

と定義していて、今回の書き方とは異なっています。
この時は「練習」というものに対してPDCAフェイズを考えていたわけですが、今回は、
「Playerとしての成長」に対してPDCAサイクルを考えたので、少し意味合いが異なることは補足しておきます。

*1:オブラートに包んで書きましたが、ビッグバンドしかやらない人が人口の8割を占めています

*2:僕はしたことありませんが

*3:こういうことをしていて嫌われるのは、他人にはさせておいて、そういう自分はチャレンジしない人。どんなレベルであっても、チャレンジングな舞台はあるものですから、そこを自分は下りて人にさせるのは、アンフェアですよね。だから誘う人は自分も試されることを厭わないように。ま、そういっていたら、ビッグバンドの「尻込み集団」では誰も飛び込まないんですけどね。その集団の「ファーストペンギン」になろう。

アドリブをするときに気をつけなければいけないこと

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裏山。2019年。

どうやってアドリブを吹くのですか?
もしくは、アドリブを演奏する際に気をつけることはなんでしょうか?

めっちゃ身も蓋もない質問です。
気をつけることはとても沢山ありますし、それこそが、各人のアドリブの持ち味になっているようにも思えます。
しかし、簡潔に概説することも必要だと思います。
プロでもなんでもない僕の個人的意見ですが、詳細はともかくとして、とりあえず要素分解してみましょうか。

  1. 与えられた場(コード)に対して適切な(時には不適切な)音を出す
  2. ソロの、曲の起承転結を作る
  3. メロディーに意味をもたせる(motivating)

順に説明していきます。

1.与えられた場に対して適切な音を出す

みんながアドリブといえば、まずこれやろ、と考えている部分です。
コード進行に対して、アドリブのフレーズの音を並べてゆく。
フレージングの仕方とか、そういうものです。

要するに、コード進行を理解し、コードの構成音や使えるスケールの音を知り、音を並べることです。
このサイトでも、多くのスペースを割いていますね。

ただ、この部分は、実は全体の一要素にすぎない、という意識をもっていただきたい。
フレージングの技法は、例えば絵画であれば、デッサンの技法、もっと言えば素描のやり方にすぎないんです。

2.ソロの、もしくは曲の起承転結を作る

小節単位での整合性はとても大事なんですが、キレイに音を並べることができても、それだけでは片手落ちです。
一曲として、感情を吹き込むためには、起承転結や展開というものが重要になってくる。

1.を、Photoshopなどで線画だけで描かれた下書きだとすれば、
今度は、それを彩色するようなイメージです。

youtu.be
youtu.be

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実際の彩色の過程の一例です

明確な技法として定式化しづらい割に、こうした起承転結はフレージングそのものと同じくらい重要です。
フレーズ一つ一つは、あくまでフレーズにすぎない。いかに適切なソロの音選びをしていたとしても、そのフレーズの連なりがアドリブソロになります。
一つの曲に対し、盛り上がり・起承転結・起伏などを考えないといけない。

もりあがりのないソロは、適切に彩色されていない線画のようなものです。
逆に、少しぐらデッサンが狂っていても(音の選びが間違っていても)、起伏がきちんとある演奏の方が、立体感がある。
ライブ演奏であればなおさらです。

もちろん、これには時代性もあります。
例えばチャーリー・パーカーの時代、つまりBe-Bopの時代は、レコードに残されている演奏は3分程度で終わり、起承転結のような展開を感じる部分は少ない。
また逆にノーマン・グランツがやっていたJ.A.T.P. (Jazz at the Philharmonic)というシリーズでは、同じ曲を20分とか延々と演奏していて、ソロの起伏とか全体の構成は、これまた別の意味でないがしろにされています。
40年代から50年代初頭のBe-bopはそんなものでした。
Bop-idiomという(虫瞰的な視野)新奇な技法にばかり目がいって、楽曲的な完成度がなおざりにされてもいた。

50年代以降は、コンボジャズも、楽曲性を問うようになり、そのおかげか、ポピュラリティを得ることになります。
和製英語ではHard-Bopと言われる時代ですね。

一般論をいえば、ソロの演奏を展開するとすれば、やや後半に盛り上がりのポイントをもってくることが普通です。
後半2/3のポイントを最初は志向して、ピークポイントを敢えて作ることを念頭においてみてください。
もちろん1/2でも3/5でも、4/5でも構わないのですが…。

ここで大事なのは、盛り上がりって何?ってこと。
一つには音量(ダイナミクス)であったり、音域だったり。
また、フレーズの速さ(細かさ)や、フレーズの複雑性(もとのコードに対しての乖離の度合い)なども、盛り上がりの指標にはなります。
というよりも、こうしたいろいろな要素が渾然となした総体で「盛り上がり」というものは形成されるでしょう。

このあたりも、突き詰めるとなかなか難しい話だったりもします。
まずは、イメージをしていただくことが大事だと思います。
このイメージがないと、なかなか、フレーズ単位の視点から曲全体を見渡す視点にならないから。

3.メロディーに意味をもたせる(motivating)

最後は、アドリブソロを展開するときに、フレーズ(モチーフ)の展開させたり、メロディーに大きな流れを作ることです。

これは厳密にいうと作曲技法とも合い通じるものです。

そもそもアドリブ・ソロとはなんでしょう?
アドリブは、テーマメロディーのコード進行を共通基盤に、また新たなメロディーラインを構築することです。

アドリブソロは、だからSF的な言い方をするとテーマのパラレルワールドみたいなものです。
同じ共通基盤(コード進行)を持つ世界の、一つがテーマメロディであるけれども、別の世界線がアドリブソロ、ということになる。
だから、アドリブソロもまた、テーマと同じくメロディーである、と言える。

クラシックの作曲技法では「反復法」と言われるらしいのですが、メロディーの技法として、Motifを展開するという手法があります。
そうやって作ったメロディー=ソロは、より意味あいが強く、意図が伝わりやすい。
物語性も生まれやすいと思います。

初心者を卒業して、中級者になってくれば、どんなコード進行に対してもコードに合ったフレーズを作ることはできるはずです。
しかし「合っている音を出す」ということと「言いたいことをしゃべる」ということとはずいぶん隔たりがある。
例えば、英語学習でいえば、文法的に正しいかどうかがわかることと、自分の欲求を伝えるために言葉を発する
できれば、そういう技法を念頭において練習した方が、目指しているものが明確になるかもしれません。

まとめ

初学者の時点では 1.のフレージングの作り方を習得するのが第一だとは思います。
これは、小節単位、長くてもワンブレス。4小節くらいまでの視野です。
しかし、2.3.はもう一歩ひいたところから見た視点で曲を解釈することになります。

最初は、局所局所で自分がどう吹くか、自分の吹く音が「合っている」「いない」が気になるかもしれません。
1コーラス、1曲、1つのライブなどのスケールで自分の演奏を見渡す習慣をつけておくことを強くおすすめします。

ピッチの話 その3 場末での話

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前回の続きです。
jazz-zammai.hatenablog.jp
jazz-zammai.hatenablog.jp

場末の話

ともあれ、かような歴史的で偉大なバンドにおいて、ピッチは相対的で深遠なものではある*1
しかしアマチュアが普段場末のセッションで演奏する場合は、そういう深遠な話以前の問題。
単にピッチは「いいか悪いか」のレベルに帰結する。

私はトロンボーンなので、特にそう思うのかもしれないが、
バックのサウンドの音程が狂っている中で、自分の音程をうまくあわせることは、なかなか難しい。

ピアノとベースの音程がずれているセッション。
ピッチ感覚がよくても、いやよければこそむしろ逆に演奏しづらい。
どこにあわせたらいいかわからない状態になるから。

でも、このパターンはまだ傷は浅い。
ピアノの音程は、再現性がある分、あわせやすい。
もしピアノの音程が悪くても、その音は何回連打しても変わることはないので対応はできる。

ベースの場合は、全体の音程が高い低いというタイプのずれというより、音程感の悪いベースの人が問題になる。
すべての音の精度が低い、という狂いかたの場合、出音が、どれくらいずれているか、予測できない。
出す音ごとに、その狂い方もバラバラなのだ。
ただ、ベースは低音なので、ピッチの許容範囲は、他の楽器よりは広いとは思う。

もっとひどいことになりうるのはギター。
先程のと比べて狂いの程度は地滑り的に大きくなる可能性がある。
ギターの方の中には、音韻情報には注意を払うけど音響情報に無頓着な人がいて、そういう人は音程が大抵悪い。
ピアノと違って、ギターはチューニングを必要とするが、こちらの許容範囲を超えた音程の場合は、やりづらい。
また、フィンガリングの問題で、きちんと音がでていない人もいたりする。
そういうつぶれた音は、音程以前の問題ではあるが、想定した音をだしてくれない。


こうなると、トロンボーンの僕はフレーズも、高音もあたらなくなる。
昔は自分の調子が悪いと思ってへこんでいたのだが、最近は、そういう状態で音程をあわせようと思っても傷つくだけ。
いつしか傷つくことをやめた。
ただ、こういう状態でも、プロは自分の中の絶対音を引き出せるのか、きっちり自分の音を出し切る。
すごいと思う。
僕はダメだな。そんな不愉快な状況で演奏をする機会は自然と避けるようになる。

* * *

静かに対談できるときは静かに自分の言葉を選んで語ればいい。
が、朝まで生テレビみたいに、お互いの話なんか全然聴いていないようなディスカッションの場では、言葉の正確性はともかくわあわあやりあうテンポとタイミングこそが重要であって、言葉の整合性は二の次なのだろう。
チューニングの狂った場での演奏には、そういう感じがつきまとう。

トロンボーンの吹き方に関する話

いずれにせよトロンボーンは音程は口元で合わせることもできるし、スライドの抜き差しでも細かい調節が可能な楽器だ。
チューニングスライドが多少狂っていても、目的の音は出せないといけない。
トロンボーンの場合、音程が悪いのは耳が悪いと同義で、サックスのように楽器のせいにはできないのがつらいところだ。

* * *

適切でない管長でも、正しい音は出せる。
スライドのポジションはともかく、口でピッチを引っ張り上げたり、押し下げたりすることはできる。
ただし、適切でないポジションで出す音は、口で合わせている分、無理している。
倍音が細って、音色も細くなる。
また速いパッセージで音が当たらない。
要するにスイートスポットにあたっていない音になる。

例えばピアノにBbを出してもらって、トロンボーンの音を添わせる、という形であわせる場合、耳と口で、とりあえず音は合うのである。
だが、曲中で吹いているとしっくりこない。
これはゴルフのスウィングのずれのようなもので、曲中で修正することになるが、まーそういう風に修正は、うまくいかない。

その時、口ので音を上げているか下げているか、をきちんと体感して、ちょうどいい管長をさぐっておく必要がある。
それは結構難しい。
なので、アンブシュアによる修正のない、リラックスした音でBbの音を吹く。
そこにピアノのBbの音を足してもらって、合っているかどうか確認した方がいい。

そうすると、一番気持ちいい音でキレイにチューニングがあう。
パカパカと柵越えのバッティングができるに違いない。

トロンボーンプレイヤー

ちなみに、トロンボーンの場合は、楽器時代がこのようにピッチについて自覚的であることを要求される楽器だけあって、ピッチの感じ方はある程度演奏から推し量ることはできる。ピアノの平均律ベースでAny KeyのTransitionをむりなく行えているトロンボーンMicheal Davis、Conrad Herwig。
逆にこの人達の音は、どこかで「トロンボーンの鳴りのよさ」を犠牲にしている感じがつきまとう。

Bennie Greenとかはその真逆で、Any Keyで演奏なんて全然しないしできないが、トロンボーンにて行われるフレーズとしては非常に鳴りがよい。
現代の人では、Steve Davisはトロンボーンらしさが目立ち、平均律感よりは、Bb調性感がつよい。

個人的にお手本にしたいのはUrbie GreenとJim Pughのピッチだ。

日本のプレイヤーでは、録音で伺うかぎり佐野聡さんと駒野逸美さんのピッチ感覚がすばらしい。
もちろん村田陽一さん、中路さんなど、CDになっているトロンボーンの人は概ねいいピッチではありますけどね*2

正しい「ミ」は、実際のところ、微妙だ。純正律的なミと平均律的なミがある。
これはトロンボーンのスライドにしたら1cm程度は差がありそうだ。

*1:そもそもマイルスの音程自体は、結構微妙…というか、わりにわかりにくい。器楽奏者的に「吹けている」「吹けていない」というのとは別に、調子いいときでさえ、我々とはみえている景色が違うのかな……という微妙な音程感がある

*2:唯一ピッチに関してあまり首肯できないのは、むか(以後自粛)

ピッチの話 その2―ロン・カーター。音程の多義性。

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積丹半島だと思う。2006年くらい。

前回の続きです。
jazz-zammai.hatenablog.jp

マイルス・スマイルズ

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話を個人のレベルに落とすが、ロンカーターである。
ロンカーター、昔の僕は、単に「ピッチ悪いやつだな」と思っていた。
びよんびよん曖昧なビートで曖昧な音を弾く、みたいな感じで、どうもあまり凄みというのを感じなかったのです。
でも、最近ロン・カーターを聴きなおしてみたのだが、ロンカーターはピッチそんなに悪くない、というか倍音の構成上、ピッチのいい悪いを判定しにくい音である。いわゆる弦楽奏者的な「いい音」ではなくて、壁のような鈍さがあるというか、下方倍音がリッチな感じ?


対して、ペデルセン(NHOP)はロンと対照的だ。
ものすごく明快な音程でソロもウォーキングベースラインも奏でている。
「トゥイーン」という感じの、ものすごく音程が明確な音を出す。
それと比べると、ロン・カーターの音はつぶれているようにうつるし、「ブーン」という感じでなにしろ曖昧だ。

しかし重要なのは、そういう「ピッチのあいまいさ」こそがおそらくマイルスの求めるところだったんじゃないか。
ペデルセンのピッチはよすぎるのである。良すぎて、ダイアトニック・トーンが、透けて聴こえる。
やっていることの頭の中が透けすぎるピッチなのである。

マイルスのいわゆる「ザ・クインテット」と呼ばれた時代は、各人の提供する音は、かならずしも統制されたものではなかった。
各々が頭脳と経験を駆使して、それまでの定型的なフレージングからはずれた新しいことを模索していた。
決して、一つのモード=イデオロギーに凝り固まることがなく、その場その場で実に「民主的に」ベースとなるモードが決定されては変化していた。
こうしたバンドでは、最低限決められた規範=モードの中で、ソリストやピアノは、自由な動きをする。
この可塑性こそがモーダルインターチェンジの本質だと思うが、そういう演奏における自由さを担保し、しかしそれぞれが出しうる異質性がばらけないようにまとめていたのが、ロン・カーターの音の曖昧さ=多義性だったのかもしれない、と最近の僕は思っている。

まとめ

  • もし、音程の良さを極限まで追求した場合、ジャズの持つメカニカルなフレーズは、演奏しづらい
  • 語法や調性が多義的にとびかうジャズの演奏の中では、音程感を極限まで削り込むことが、良いサウンドにつながるわけではないと思う

ピッチの話 その1 ピッチの意味論

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最近の僕にとって*1、音程に悩むのは以前ほどではなくなった。

楽器を始めた学生の頃は僕はあまりピッチがよくなかった。
だが、中学生・高校生、そして大学一年生くらいまで、
今思うと、ピッチが悪いころは、実に「ピッチが悪い」ということさえもわからないレベルだったのだ。
とことんよくなかったのだ。
自分がブサイクであることすらわからないくらいブサイクだったわけである。

* * *

大学二年生の時にとんでもなく音楽的に優れた後輩が入ってきた。
彼女はあきらかに自分よりピッチがよかったので、ピッチの悪さに自覚的にならざるを得ず、それが改善につながったような気がする。

ピッチの悪い人間が、自分のピッチの悪さを自覚していることは殆どない。
逆に言うと、自分のピッチの悪さを自覚しながら、確信犯で音程の悪い音を出し続けることに、多くの人は耐えられない。
ブサイクと知りつつ、ノーメイクブサイクでいつづけることは出来ない。

ゆえに、自分の中のピッチの精度以上には、出音のピッチの精度は上げることはできない。
これはある種当然のことだ。

* * *
 
トロンボーンは、音を離散的ではなく連続的に取り扱わざるを得ない楽器である。
その点ではこの楽器はボーカルと本質的には同じだ。

ま、これはフロント楽器はみな同じ。
ことさらトロンボーンに限った話でもない。
音程の悩みから完全に開放されているのはピアノやオルガンだけ。
音程に自覚的でないと、ジャズ語法を実地適用できない。

たとえば、サックスもボタンを押したら正しい音程がでる、なんてことはない。
音程はそれぞれのポジションごとに口で細かく合わせないと、正しい音は出ないらしい。
しかし初心者の時は、運指どおりに動かしてその音を出すかで精一杯。
 
ピッチが悪いといわれるけれども、よくわからない人は、あまり残響音が響かないところで(トイレとかが適当だ)ドレミファソラシドと口ずさんでみればいい。基準がない状態で、自分の感覚の中にあるIntervalだけを頼りにを音階を歌うのは、結構難しい。

これをやれば、自分のピッチの悪さが、少しはわかるかもしれない。

Non-Diatonicとピッチ。

 
しかし、あまりにもピッチに対して先鋭的にありすぎる場合、ジャズ語法の多義性を阻害してしまうのかもしれない。

オルタード、ホールトーン、コンディミは、ジャズでよく使われる3大イキりフレーズだが、これは平均律の12音階の中で、ある種の理論的な対称性を優先させた結果のもので、生得的にシンプルな美しさをもっているわけではない。

響きの濁りをある程度許容しないとこれらのスケールは成立しない。
楽器の音の響きやメロディーの歌い方の綺麗さを純粋に追求していけば、純正律における「調和」を意識せざるをえない。
が、その場合、コンテンポラリーな語法そのものが立ち行かないのである。

ジャズの小難しいスケールは、いわゆるダイアトニック・スケールにおけるピッチのよさとトレード・オフの関係にある。
おそらくドレミファソラシドを完璧な純正律で弾くことに器楽能力を傾けた場合、オルタードスケールは弾けなくなる、はずだ。

クラシック上がりの奏者の中にはその器楽能力の高さの割にソロがダイアトニックから離れられない人がいるが、それはそういうことなのだろう。
もちろんメシアンを始めとする現代音楽まで時代を下れば、クラシックだろうが関係ないだろうけれど。
キース・ジャレットも、純正律調律のピアノで、よくわからないアウトスケールを弾いたりする。
全く……調香師のようなセンスがあるんだろうな。

つづく。
(2008くらい 初稿)
 

*1:2008年くらいのテキストです