半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

ボーカルと私。

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最近私はあちこちで歌い散らかしているわけです。はい。

実際のところ嫁には、あんたの歌どうなん?と聞かれますが(あ、嫁は私よりずっと歌がうまいのです。ドラムしながらのコーラスには定評がある)実際のところどうなん?と私も思う。まあ、ひどく音程ははずれてはいないとは思う。

私は長らくストイックなインストゥルメンタリストという立ち位置で音楽に関わってきたので、今までの私をよく知っている人からすれば、最近の私のありようには、いささか違和感があるように思う。というか、私自身がそうです。

なんで僕、歌ってんだろ?

 * *

ボーカルというものは私とは無縁な存在だとずっと思っていた。自分にボーカルなんて出来るはずがない、と。

僕が考えるボーカルのイメージは、まるで新鮮な果実をぎゅっと絞ったように、あふれちゃってあふれちゃってしょうがないくらいに音楽的な才能が豊かな人。

開放的な心性を持った人。

どちらかというと理性よりも情実に豊かで、他人の感情の波動に敏感な人。

 …そういうのがボーカルにとって必要な特性と思っていた。

対して僕は、ぜんぜんそんなタイプではない。

もぐらのように深く潜って乏しい音楽的鉱脈を掘り起こしてやりくりしていたタイプだ。情よりも理。心の扉も閉ざされて、どちらかというと批判的な思考をする。

 * *

 きっかけはカラオケだった。

 昔は私はカラオケに行かない人だった。「歌で表現しなくても楽器で音楽やっているからいいや」と言っていたが、なんのことはない、自分の拙い歌を晒すのがいやだっただけだ。青年期の私の肥大した自意識は、歌うという外向的な行為を行うにはいささかナイーブ過ぎたといえる。そうして僕の青春時代は過ぎた。

 数年前から、楽器の練習をするのにカラオケボックスを使うようになり、となると必然的にお一人様カラオケになり、そこで空いている時間で歌ってみたりしたわけだ。その頃トロンボーンもピッチが随分良くなっていた事や、お一人様なので、キーの最適化とかができたのもあると思うが、結構歌えたのである。なんだ!俺ヘタじゃないじゃん、と。

 

jazz-zammai.hatenablog.jp

また、それとは別に、去年のエントリー(曲をこなせるようになる、というのはどういうことか考えてみた)にも書いたが、楽曲分析をするのに、歌詞を集めたり、曲の世界観を調べるとか、そういうインサイドワークも、こつこつとしていたのである。せっかく調べたんだから、そのまま捨ててしまうのももったいないような気もした。

 それなら試しに歌ってみたらいいじゃないか、最近カラオケもよく行くし

 →あら面白いわあ。歌って楽しいわあ。

 まるでそば湯のようなものである。

 スピンアウト、とかバイプロダクトとか、かっこいい言い方もあるが…

 かくして僕は歌い始めたのである。

 * *

 歌ってみてわかったことは、やはりボーカルと楽器は随分違うということ、しかし、本質的には同じということ。

 ボーカルは、自分が頭のなかでイメージしたことが、かなりダイレクトに反映される。ボーカルってやつはとにもかくにも丸出しなのだ。むしろ抵抗がなさすぎる。

 対してトロンボーンは、頭のなかでおもいえがいたことを音にするまでに相当の修練を必要とする楽器だ。抵抗に打ち勝って、なんとか音を出す、そういう感じだ。だからトロンボーン一筋だった自分からしてみれば、ボーカルのダイレクトさには相当当惑した。泥田の上を歩いていた人間が、突然氷の上に立たされたようなものである。

 ただ、そういう不自由な環境でいろいろ考えてきたことは、やはり同じ音楽。役に立つのである。人生に無駄なことはない、というのは本当だ。

 逆に、器楽なしで純粋にボーカルだけだと、よりどころがないと思う。紙と鉛筆なしで数学の問題を解くようなものだ。どうやって練習したらいいのかすごく難しいと思う。*1

 泥田と氷のたとえになったが、トロンボーンは、音を出すのにコントロール力が要求されるのに対し、ボーカルは無数に出しうる音のうち、強い意志を持って音を置く(刈りこんでいく)コントロール力が要求されるのかもしれない。

 いずれにしろ、トロンボーンをやったことはまぎれもなくボーカルやるのに役立っている。そして、ボーカルをやることも、トロンボーンの方にもフィードバックされている。

 * *

 ボーカルという形で前に出る選択を最近したのは、自分の仕事の変化もあるかもしれない、とも思う。

簡単に云うと、今までキレンジャー的な人間だった僕は、今後アカレンジャーになる。組織の下部構成員であることから、経営者とか、プレイングマネージャーという立場に今後数年でなることを余儀なくされる。

 私の中では、そのような変化について「性に合わないなあ…」という、うんざりした気持ちを持ちながら、しかしやらなければならないのだ…という覚悟とも畏れともつかない感情が混在している。

 フロントに立って歌うという行為は、つとめてアカレンジャー的な行為で、それを敢えてやろうと思い立ったのは、ある種の訓練を自分に課しているともいえなくもない。今ボーカルをやってみているのは、不足の栄養分を補っているのに近い。

 そして嬉しい事に、私自身はそういう振る舞いに慣れつつある。変化を実感している。

数年経てば、今の自分の行動はもうすこし冷静にふりかえることができるかもしれない。その時に、長年やってきたトロンボーンが、自分の心の中でどのような地位を占めているのかは、興味深い問題だと思う。

*1:実際、ジャズの構造に興味を持ったボーカリストはやはり楽器を触りつつ学習をしているように思われる。テーマだけ歌って終わりのボーカルとそれ以上に進むボーカルかの、境目はそこだ

練習におけるPDCAサイクル

インプットとアウトプットの話を前回(http://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor/20130610)書いた。

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 ああいう書きかたをしたのは、要するに今の自分の行動に辟易していたからで、あれから1ヶ月あまり、新しい企画や前回やった企画のその2、というのをあえて走らせずに、セッションにゆるゆると参加したりはしながら、自分のありようを考えている。

 もっとも、観る方は充実していた。

 ニューヨークで活躍している大林武司(http://ameblo.jp/tksobys/)さんのライブ、師匠でもある浜崎航・松本茜さんのライブ(Big Catchレコ発ツアー)と、CDレベルの方々のライブを立て続けに観、自分とのあまりの懸隔に呆然としたりもした。なにしろ、みな自分より年下だけれども、ジャズの真髄に肉薄していること、比ではない。

 と思ったけれども、そういう人の演奏を、そもそも同じ地平で考えている自分の不遜さが、おかしくも微笑ましく思えたのも事実である。こういう人たちを同一平面上の事象としてとらえる、べきかどうかはわからないが、アマチュアミュージシャンの多くは、そうは考えない。

 もともと持っているタレント、練習量などの差はさておき、一応目標としてこのレベルを念頭に置いて、研鑽を続けると、その人達のたどりついた高みの何割かのところに到達することができる(なにしろこちらは、彼らよりも能力が劣っている上に二足のわらじを履いているのだ)。逆にいうと、そういう思いを持たないと伸びないのである。「アマチュアのジャズ・ミュージシャンの平均値、だいたいこれくらいでOK?」というあたりを目標にしていても、伸びない。

 どんなに大それた、実現性の薄いことであったとしても、想像しないことは実現しない。モラトリアムから決別し、社会人としては実社会にそれなりの地位を見出し、子供も持った自分ではあるが、未だにこういう人達と同一平面上での演奏を妄想していることは、演奏者としては健全なのではないか?

 と思ったのは、ここ最近セッションで久しぶりに会う人々の演奏を耳にしたからだ。アマチュアの演奏で差が出るのは、そういう「健全な妄想」を持っているかそうでないかというところではなかろうか。そういうことを考えなくなった人からは、もうそういう音しかでないのだ。

 もっとも、そういう妄想は、社会人に必須な能力である客観的な評価能力や鑑賞眼と相反することだ。世の中をわたってゆくのに必要なクールさ、クレバーさは、自分がとるそのような妄想をクレイジーと断ずるだろう。

 だから、自分の能力を超えて、あまりに、あまりに、高みを目指すと、イカロスのように紅蓮の炎に焦がされてしまうのかもしれない。

 でも、貪欲に、目標は高く持った方がいい。たとえ、自分に幻滅してさえも。

 現在の自分に対する幻滅と、根拠のない未来への肯定感。おそらくこの青臭さが、サミュエル・ウルマンのいうところの青春なんだと思う。

 今の僕は、社会人の持つクールさと、しかしミュージシャンの持つべきクレイジーさを、脳の中で同居させている(勿論、幾分かの欺瞞はあるし、大人はずるいので、現在の自分に対する幻滅は若い頃よりは減らして自己肯定の比率をこっそり増やして心が折れないように防御もしている)。

 もちろんこれは一朝一夕にできるようになったわけではなく、多くの社会人ミュージシャンは、まず社会に出て、Adjustするのに少し時間を要し、そこから夜昼の切り替えを学習するのではないかな。

 * * *

 しかし、インプット・アウトプットのサイクルは難しい。

ライブを観るという行為はインプットだし。セッションで演奏するというのはアウトプットである。

しかし家で練習する、というのもインプットだし、セッションじゃない、自分のライブを組み立てるのもアウトプットである。

 しかし、この2つのインプットは全然意味が違うし、アウトプットも、少し意味あいが異なる。いや、そもそも家で練習というのはインプットなのか?アウトプットなのか?よくわからなくなってきた。家で練習、というのは、演奏の入出力では、アウトプットだが、他人に表現するという意味ではインプットという事になる。単純に、インプット・アウトプット、という二元法ではなく、もう少し細かく表現した方がよさそうだ。

むしろビジネスの世界で提唱されている、PDCAサイクルを練習の方法論に取り入れてみた方がいいかも。PDCAサイクルとは Plan→Do→Check→Actionの頭文字で、事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務を円滑に進める手法である。

最近いろいろなことに触れて思うことは「一つのことはすべてに通じる」という事。

人間が行うことである限り、仕事でのメソッドも、趣味や家庭でのメソッドも、援用できるものは多い。

Plan:現状の評価と練習計画の策定。

Do:練習(コピーをしたり、アナリゼをしたり。含セッションでの演奏)

Check:問題点の再評価

Action:演奏

最近おろそかになっているけど、練習日誌を書くのを再開してみよう。

 * * *

今度は、「アメーバ経営」が音楽に援用できるかどうか、考えてみようかな。

インプットとアウトプット

まずは去年の総括と目標を参照頂きたい。

http://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor/20130108

  1. ワンホーンでのバンドを作る。自分に責任のある形でライブをしなければならないなあ、と思うのです。トロンボーン一本という形で、どこまでお客さんに満足していただけるライブができるのか。
  2. 出来れば福山圏外への進出。ジャムセッションを足がかりでいいのですが、ゆくゆくはレギュラーのバンドにイレギュラーにプラス・ワンという形で、演奏できればななあと考えております。歌伴のオブリガードが目標ですね。
  3. 相変わらず、他県出張の際には楽器を持ってジャムセッションに参加すること。東(岡山エリア・関西)、西(広島エリア)、四国(高松・松山)。
  4. ジャズ以外ですが、弾き語りをお披露目すること(笑)

という風に書いていたのだ。そして上半期までの達成度は以下のとおり。

  1. 4月には自分が企画したワンホーン(すなわちカルテット)のライブをやった。沢山の人に来ていただき、集客としてもまず成功の部類。また、病院のホールにて演奏をするという企画も試み(こちらは歌伴ですが)た。過去10年間自分主催のライブをしてこなかったので、今年はそういう意味では頑張ったと思う。
  2. 圏外:岡山SOHOにてMJQ?というバンドにて演奏。
  3. 大阪 きょん、神戸萬屋宗兵衛、東京 Somethin’ 、Independence、阿佐ヶ谷マンハッタン、J-Flow、Cotton Clubのセッションに参加。結構がんばったとおもう。
  4. 弾き語りに関しては残念ながら全く目処がたっておらず(笑)

弾き語りはともかく(失笑)その他に関してはある程度 企画→立案→演奏というサイクルが順調に回ったと思う。今年の上半期を終えた状況で振り返ってみると、アウトプットとしてはなかなか順調ではないか。



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ただし、こうして振り返ってみると、目標を達成したという深い満足感は存外になく、むしろ苦い感じが、自分の中に共存しているように思われる。「だから何?」って醒めた自分がいるのだ。

 目標から企画を立案しそれを実行することは、つまり頭の中の妄想を形にすることほかならず、それはそれで大事だけれども、快楽がそのプロセスにあるわけじゃない。脳内のもやもやしたものを企画立案という形に落としこむ段階が実は一番楽しい。永遠の厨二病である私たちにとってはね。だから今年の目標、というものを立てた年初の時点で、その快楽は前払い済みなのだろう。

 では、なぜ自分が今「だから何?」って思っているかというと、この半年で自分の演奏が格段によくなったわけではない、ということに気づいているからだと思う。

 企画は達成したが、一演奏者として自分を冷静に見直すと、成長は得られた達成感ほどはないのである。演奏技術に関しては、こうありたいという自分の理想に真剣に向き合わず、目先の演奏を優先させたのではないか?

 勿論、演奏者としては3年前と比べると随分いい演奏をできる率は上がった。ひどく悪い演奏をするのも減った。中長期的には、進歩している。ただし、この数ヶ月は、あまりほめられたものではなかったと、正直に思う。

 なんというか、立て続けに人前で演奏を続けると、時間をかけて蓄積した自分の中のものが枯渇する感覚を抱く。

 ということは、今の ライブの間隔は、家で自分に向き合って新しいリック新しいイディオムを体の中にしみこませる時間(インプット)とそれを発露する時間(アウトプット)の適正なバランスが崩れて、アウトプットに傾きすぎという事なのだろう。

 例えば、小説家でも、デビュー作の力作にも関わらず、二作目以降、急に味が薄くなって幻滅する、ということが時に起こる*1。また、学会発表などでも、一つのテーマを立ち上げるのは結構大変なので、同じテーマで少し変えたものを数度発表したりするのはよくあることだが、あまりにも同じのを自分でつづけていると「またか」と自分でもげんなりしてくる。二番だし効果なのか、出涸らしなのか。精神的腎虚

 一流どころのミュージシャンは、そういうコンスタントに多忙なスケジュールの中で、それでも進化し続けていて、すごいなあと思う*2

 が、実際話を聞いてみると、昼間の時間に、それこそライブ二三本こなせるくらい練習をしていたりするのである。いやもう、すさまじいと思うしかないし、実際昼間に仕事をかかえている身ととしては、そこまでのDevotionは不可能である。

 今自分は、アマチュアとプロの間、汽水域のようなところに棲んでいる。

 自分に適正な塩加減のところを間違わず、コントロールしていきたいと思う。

*1原田宗典のエッセイとかはすごくそういう感じがする

*2:一流の研究者も、同じネタの使い回しではない発表を矢継ぎ早に行い、やはりすごいなあと思う。

バラードの難しさとポジションのはなし

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 去年の総括にも書きましたが、最近やっとバラードに取り組もうと思えるようになった。

 なにしろバラードは難しい。

 私は アドリブとテーマで言うと、アドリブの方が先になんとなく形になってはいたが、テーマを歌うというのが実に苦手な男だった。いまでもそうだ。多分、バップイディオムから研鑽を積んできたからかもしれない。

 しかし特にトロンボーンという訥々とした楽器では結局のところ、テーマ、つまり音数の少ないゆったりとしたフレーズを歌えないとなんも始まらない、ということに今更ながら直面したわけです。


 * * *

 んで、最近の私は、トロンボーンでなにを練習しているかというと、コプラッシュなんです。

 コプラッシュ、トロンボーンエチュードなんですけれども、トロンボーンを25年やってきて、この手の教則本に手を出すのは初めて。お恥ずかしい次第。

改めてコプラッシュをやってみて思うこと。

第4,第5ポジションの使い方がなっちゃいなかった、ということ。

 

例えば、D-B-C-Dというフレーズだったら、4-4-3-4というポジショニングだと手が楽だ。アドリブでやるときは、瞬間芸なので1-4-3-1とかで吹いてたりしました。

あと、同様のフレーズだったら、D-Bb-C-Dだったら 4-5-3-4 とか。

これも、第5ポジションのBbとか、ピッチがやばかったので昔はよう使わなかったんですけれども、覚悟決めて多用する練習をしています。ちょっとましになりました。

でもまだ、例えば Confirmationのテーマとか第6ポジションから始めるところまでいっていません。自然と4,5,6ポジションを使えるようになるにはあと半年くらいかかりそう。

こんなこと、楽器の練習としてはむしろ初級から中級レベルの話で、実にお恥ずかしいことなんですけれどもね。年数だけ重ねて、テクニックも固まったと思っていたんですが、人は変わろうと思ったら変わる。

で、コプラッシュやると、全体的にピッチがよくなりました。そしてテーマを歌うのもやりやすくなりました。やっぱりクラシックの教則本って大事なんだなあと思った。村田陽一先生の言うとおりでした。

2012年の総括

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去年も音楽には精をだしました。

ちなみに2011年のまとめはコチラ>http://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor/20120119

昨年に引き続き、県外のセッションにもぼちぼち顔を出しましたが、後半は頻度が落ちたように思います。地元においても、特に今年の後半には、セッションに近い形態に参加する回数が、目立って減りました。

1つには、身も蓋もない話ですが、引越しをして、ジャムセッションの店から、結構遠くなったというのがあります。

それと、自分の家に、練習場所を設けることができたので、セッションという形で楽器演奏能力を維持する必要がなくなった、というのもある。楽器に関しては自宅で、コプラッシュを地道に練習したりしています。スライドのポジショニングは私、完全に自己流で、不効率な動きをしていたことがよくわかりました。すぐには直せませんが、第4~6ポジションのあたりをもっとうまく使いこなす必要がありますね。

 しかし最も大きな理由は、「なんでもあり」のジャムセッションでできることの限界を、何度か感じたからかもしれません。

 ジャムセッションに求められるのは、どういうリズムセクションに対しても、その場でAdjustし、自分の持ち味を引き出してできるだけいい演奏をする、ということです。

 随分長くセッションばっかりやっていますから、普通のオープン参加のセッションで、リズムセクションのレベルについていけない、というのは、随分減ってきました(…と勝手に思っているんですけれども)。むしろ、皆のレベルがまあまあ揃っている場合ではなくて、実力がバラバラである、というシチュエーションが、しばしばあります。こういう時に、僕はまだうまくソロを吹けない。割とダメな人に引っ張られてしまう。でもやっぱり一流どころのプロの方はうまいことしはるわけです。

 どんな時でもうまく自分の演奏を引き出したいなと、ずっと思っているんですけれども、やりづらいリズムセクションの中で時間を重ねることは、必ずしも解決方法に近づかないのではないか、とここ最近は考えるようになりました。やはりある程度実力の揃ったメンツと演奏する時間を背景にして、自分の演奏を構築する必要があるじゃないかなぁ……

ジャムセッションは、必ずしも演奏の質を保証するものではないですから。あ、もちろん、ジャムセッションは面白いので、今後も参加しますけれども。


 もう一つ、明確な課題ですが、来年はもう少し表に出ることを増やそうと思っています。

 ジャムセッションに加わる際にも、フロントマンとしてはあまり前に前に出ずに、オブリガードとかに回ることが多いのです。トロンボーンって、二管・三管編成でやることが多くて、ピン立ちは少ないんですよね。だからリードソロよりも二番手三番手が多い。そういう楽器の特性に添いすぎたかもなあと反省しています。

 今でも、2-3時間セッションに参加していて、演奏そのものには半分以上参加しているのに、テーマは結局一度も吹かなかった、みたいなことはしょっちゅうある。

 これはひょっとして職業的な傾向と関係しているのかもしれないとも思います。今まで、アフォーダンスを重視するというか、与えられた場に対してふわりと適応するという、というのを過度に目標にしすぎたかもしれないなあ。二番手のフロントとして振る舞うのに慣れているけれども、リーディングソリストとして、テーマを吹き、サウンドの方向性を引っ張る、ということに対しては、キャリアの割に、うまくない。中継ぎはうまいけど、先発はあんまり向いていない。はっ、これは『グラゼニ』の凡田夏之介ではありませんか!?

 ま、しかし、そういう自分からすこし脱却したいと思います。テーマをきちんと歌う。テーマからの続いてのソロをしっかり提示する、というところを、意識的に取り組みたいと思います。まあ、2012年の後半は、時にそういう姿勢を前面に出したりもしました。でもまだ不徹底ですね。 

 アドリブに対しては、今までと同様取り組みたいとおもいます。

 最近は、アドリブは、風呂敷の包み方、みたいなものなのかな、と思うようになりました。いろいろな形の荷物を包む。荷物は曲です。物によっては、丸かったり四角だったり、角が出ていたり、平べったかったり、いろいろな特徴がありますが、それぞれの包み方さえ知っていれば、よっぽどのことがない限り、包み方はパターン化される。 もちろん、ただ包むのと、美しく手際よく包むのは違う。美しい風呂敷包みの方法には終わりがないように、アドリブの研鑽にも当然終わりがありません。今年はTpの唐口さんをお手本にして、コンディミとホールトーンからのトニック解決の部分を、少しかっこよくしたいと思っています。後は、マイナー一発とか、そういう曲でうまいこと展開するとか。なんとか60年代よりも後の時代に、コミットしたいです。


 一方、今年は、ホーンセクション的なミッションが増えました。増えました、というか、別に誰も声掛けてくれないんで(私が、そういうの好きだったり得意だったりするのはあまり知られていない)、知っている人に声を掛けて、そろっと押しかけホーン・セクションをやりました。Elevatorsでのホーン・セクション、Cable and the Familystone、ありがとうございました。とっても楽しかったです。Toyboxもありがとうございました。結果的には割とうまくいきましたが、納期がギリギリだったりして、ホーン・セクションとして共演した方々(森川くんにだいぶしわよせがいった)には迷惑をかけたように思います。すみませんでした。そしてありがとうございました。

 同時に、今年はビッグバンドにもかかわらせていただきました。山本さん率いるKJE(倉敷ジャズアンサンブル)に二回出演し、またFJO(福山ジャズ・オーケストラ)にも参加させていただきました。一昨年はビッグバンドに参加したとはいえ、ソロはなかったのですが、今回はソリスト的な役割も頂いたので、自分の持ち味を発揮できる形で参加させていただき、光栄でありました。学生の時にビッグバンドに関わっていた時に比べて、サウンドの咀嚼能力は向上しています。吹いている音のコードトーンにおけるテンションとかは昔より明確に理解できるようになると、ビッグバンドのアレンジの巧妙さは感動的ですね。

 ねがわくば普段のコンボ演奏にもフィードバックできたらとおもいます。このレベルの稠密さで、サウンドしたいものですね。

ジャズ・コンボで言えば、種元さん率いるJazz Monday Trioへの参加およびPuppet-Boppersでの活動も、堅調でした。

 同時に少し減ったこともあります。TamatrioことStay Blueでの活動は完全に縮退してしまいました。金曜日のボーカルセッションへのお邪魔もかなり減ってしまいました。歌伴、というのも自分の音楽活動の中ではかなりの比率を占めているもので、このあたりは形を変えて続けていきたいと思っています。

 あとは、家にピアノを買ったり、防音室を作ったりしたことで、練習体制に質的な変化がおとずれつつあります。むしろ嫁の音楽活動の伸びの方が、私のそれよりも大きいかもしれません。


今年の目標。

1:ワンホーンでのバンドを作る。自分に責任のある形でライブをしなければならないなあ、と思うのです。トロンボーン一本という形で、どこまでお客さんに満足していただけるライブができるのか。

2:出来れば福山圏外への進出。ジャムセッションを足がかりでいいのですが、ゆくゆくはレギュラーのバンドにイレギュラーにプラス・ワンという形で、演奏できればななあと考えております。歌伴のオブリガードが目標ですね。

3:相変わらず、他県出張の際には楽器を持ってジャムセッションに参加すること。東(岡山エリア・関西)、西(広島エリア)、四国(高松・松山)。

4:ジャズ以外ですが、弾き語りをお披露目すること(笑)

ピアニカ事始

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 先日久しぶりに人前でピアニカを演奏しました。しかも、音楽にたいして興味がない人たちの前で、しかもピアニカ一本の独奏という、えらくハードルの高いミッションでした。おまけに寒風吹きすさぶ屋外で…いろいろな悪条件の重なった演奏でした。あ、写真は3年くらい前のやつで、今回のミッションのものではないです。

 結果は、控えめにいっても満足のゆくものではなかったんですが、自分の演奏した感触として、最近ピアノにコンスタントにふれている長短がでたように思います。

 振り返ってみると、ここ一、二年はピアニカについての言及もひどく少なくなっていましたし、実際に演奏することも減っていました。色々理由はありますが、

1:練習する場所がない。

 3年前勤務する場所がかわって、ピアニカを練習する場所がなくなりました。ピアニカはトロンボーンに比べて、はるかにうるさいんですよね。(トロンボーンは、音色が柔らかいのであまり気にならないし、最大音量を出さないようにコントロールすることはできる)。私は一時期トロンボーンの練習に関しては、春夏は河原で吹いて、秋冬はカラオケボックスでごまかしたりしていたんですが、ピアニカは、さすがにカラオケボックスでは五月蝿すぎる感じでした。

 ピアニカは、意外に、うるさい。

2:ピッチが微妙

 ピアニカの音程は、たとえば定期的に調律をしているピアノほどは音程が厳密ではない。オクターブで鳴らすと2つの音が微妙にうねったりというのもしょっちゅうです。それはそれで、ミュゼット感がでていいんですけれども、僕が行くジャズのハコは A=442Hzなんですが、今もっているピアニカは多分440Hz。微妙に音程があわないんですよね。

 ピアニカを触り始めた時にはあまり気にならなかったんですけれども、いわゆるジャズのセッションのような場で弾くと、どうしてもこのピッチの微妙な感じが気になって仕方がなくなった。

 また、この2-3年で私のトロンボーンのピッチは以前よりかなり良くなったんです。トロンボーンのピッチがよくなった、というのは畢竟自分のピッチ感がよくなったので、ピアニカででてくるごくごく微妙なピッチの差が気になって仕方がなくなり、また、耳のいいボーカルに、まさに、そういう若干ずれたピッチが嫌がられたこともあり、出番が減りました。

 というわけで、ピアニカはしばらくおやすみしていたのですが、今回わけあってピアニカを引っ張りだして吹いたわけです。今回は独奏で、ピッチを気にしなくていいし、自宅に防音室ができたので、ピアニカの練習もしたい放題になり、上記の理由が改善したわけですね。

 もともとトロンボーン一本槍なので、指が回らないというのが悩みのタネなのですが、ここ最近は地道にピアノを触っているせいで、ピアニカを弾かなくなって1年半くらい経ちますが、前よりも指は回るようになっていました。それでもピアノ弾きの足元にも及びませんけど、でも自分としてはささやかな進歩です。

 しかし、ピアニカをよく触っていた頃はピアニカの鍵盤の感覚に慣れていたのが、ピアノを触ると、ピアノのキーピッチになれるので、ピアニカを触ると「せまっ!」と思ってしまいます。これが長短の短の方。


 いずれにしろピアニカという楽器はいろいろおもしろいです。

 楽器の特性としては サックスやトランペットのような、ウィンド楽器の強さを持った音が出る。しかし、ときに複音が出せる。

 そういう意味では、ニュアンスとしてはジャズ・ギターっぽいという気がします。そういう使い方がベターなんじゃないかな。メロディーを弾きながら、同時にアクセントになる部分では3音くらいまでハーモニーを重ねられる。3・4・5指でメロディーを運指しつつ、重要なポイントでは1・2指で ハーモニーを重ねる、というのを、基本にしたらいいのではないかと思う。

 ピアニカで独奏するときには、ジョー・パスのVirtuosoとかが、ソロ演奏の参考になるのではないかと思います。その線で、ちょっと解析してみようと思う。

 もちろん、他人がメロディーをとるときに、厚めに白玉でハモるとか(オルガン的な使い方)、完全にバップのフレーズを単音で弾く(サックスなどのような使い方)というのもあリます。

 なんにせよ、楽器のキャパシティを完全に引き出すことができたら、かなり可能性のある楽器なんじゃないかとは思いますね。改めて。

コンディミ事始

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今更ながら、コンディミをしこしことやっている。

ジャズのフレージングについては、たとえばオルタードがどうとか、コンディミがあるとか、そういう話はアドリブの勉強をしていた初学の段階でもちろんさらうわけですけれども、その後、コンディミに関しては重要性や使いやすさは理解しつつも、あまり利用しようとは思わなかった。25年間、コンディミは放置していたんです。

理由はいくつかある。

  • その1:トロンボーンでコンディミスケールを、上行、下降するのはむずかしい。12音中8音使う、ということは、クロマチックスケールにも準じて、半音単位の移動が結構あるが、こういう半音の動きはトロンボーンにとってはかなりやりにくいのである。トロンボーンでかっこよく吹きこなすことがむずかしいのだ。実際に吹きづらいフレーズは、やっぱり足が遠のく。
  • その2:かと言って、Diminishを使わなかったわけではない。最近になるまで(というか、今でもだけど)、スケールアプローチではなく、コード・オリエンテッドなフレージングをしていた。リハモにおけるパッシングディミニッシュとかは大好きだ。従って、ディミニッシュのアプローチは結構多用するものの、コンディミ、という形では使わなかった。例えば、ED-GF-BbAb-C#B-みたいな、Diminishに沿って対称性を保ったまま動かすとか、そういうのはむしろよく使用していたのである。しかしこれは、今にして思えば、Diminish 7th のコードなりに弾いているだけで、コンディミらしいうまみがないと思う。ディミだ、これは。コンディミじゃなく。

最近コンディミを練習するようになったのは、トロンボーンよりもピアノを触ってフレージングを追求することが多くなったのも一端かと思う。つまり、トロンボーンという楽器のコンディミにむいてなさから解放されたから。

結局僕は20年間勘違いしていた。

コンディミは、Diminishを下地に構成されたスケールであるが、これを、Diminishコードで使っても、なんのひねりもない。それは、ただのDimiだ。コンディミはありとあらゆるDominantで使う、使えるところに、意義があるんだなあ。

なーるほどねえ。

みんな使うわけだねこりゃ。

大体はわかってたつもりだけど、楽器的にうまみがないと考えて、あまり深く考えてこなかったことを反省する。

かと言って、トロンボーンで スラスラっと上下するコンディミを使う人はあまり見ないし、今僕もトロンボーンに持ち替えた時に、コンディミのフレーズを吹くとどうしても不自然な感じはぬぐえない。やはり、トロンボーンにおいては使えるコンディミフレーズは限られるようには思う。

ただ、意義を見出すことができたので、もうすこしやりようはありそうだ。


ここ最近は、いわゆる手を動かす練習では、コンディミばかりもごもごやっている。

Dimishから派生したスケールなので、当然ながら コンディミには3種類しかない。

毎日10分でもAny Keyでコンディミを触っていると3種類の系列の区別が

やっと、手の感覚でわかるようになってきた。結局は、柳宗理の言うとおり、手に馴染むまで使い込まないとイカンのだ。

コンディミのよさは。ありとあらゆるドミナントに対して、無理なくハマるところだ。

セブンスコードがあれば、その7thと3rdの増4度を想定して、コンディミをはめる。

そこまで難しく考えなくてもルートから全音下がって7thを想定すればいい。

例えばC7に対しては CとBbを軸とするスケールが 見事に ドミナントのおいしいテンションをかすめてゆく。

コンディミのいいところは、ある音があって、その音から、半音上がる、半音下がる、全音上がる、全音下がる、どのパターンをとっても、一義的に スケールを決めることができるところだ。

2つ音を選んだら、無限に続くピアノの鍵盤の上に、そのスケールの音列が、上方にも下方にもぶわっと広がる、というイメージ。

トロンボーンではなく、ピアノを触っているからこその感覚かもしれない。

というわけで、とりあえず最近の私はスタンダードをAny Keyで回しながら、V7がでてくると コンディミの上行フレーズをねりねりと弾いて、コンディミ頭をなじませている。

やっと、あんまり考えなくてもスケールがしゅっと出てくるようになって来ました。

これ、本来は大学の3回生か4回生でやってもいいことだよなあ(やってたんだけどね、ものにならなかったの)。

やれやれ。