半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

使っていい音について その2

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問い:使っていい音、使ってはいけない音、というのがよくわかりません。
 自分がアドリブを吹いたりする時に、「あっこの音、はまっていない!」と思う瞬間はあります。おそらくその音の使い方が不適切なんだと思うんですけれども、なぜその音がいけないかが解らないんです……
 でも、理論書をみて"Available note scale"とか書いてあるものの範囲内でも、はまっていないなと感じる時があるんです。
 よくわかりません。

前回の続きです。

jazz-zammai.hatenablog.jp

使っていい音、使ってはいけない音、というのはなんなんでしょうか?

話し言葉とのアナロジー

jazz-zammai.hatenablog.jp

 以前に「理論」の項でも試みたように、音楽を会話、話し言葉などのアナロジーで考えてみます。

 言葉はひとつひとつの文字の連なりから構成され、音楽はひとつひとつの音(音符)の連なりから構成されますね。
 (そういえば、そうやって出来た分節/音節は、共に「フレーズ」という言葉で表されます。)

 ここで注意してもらいたいのは、言葉の場合、文法によって規定されるのはひとつひとつの文字ではなく、あくまでそれが連なって完成したフレーズ、分節・文章に対してだということです。

 音楽も同じです。ひとつひとつの「単音」に文法(この場合音楽理論)を当てはめることは適当ではありません。
 
 例えば、「おはようございます、□…」という文があったとしますわな。
 □の部分に言葉を入れる。

 色々な言葉を入れることができますよね。
 「ああ、又遅刻しちゃったよ…」であったり「今日もよろしくお願いします」だったり。

 この、四角の枠の部分の最初の一字に、使ってよい言葉、いけない言葉というものはありません。
 もし、使っちゃったら、その言葉を含む文を作ってやればよい。

 たとえば、どうしても「さ」という言葉を入れて会話を成立させようとした場合、
「おはようございます、『さ』あ今日もがんばるぞ~」とか
「おはようございます。『さ』て、昨日の件だけどどうなってる?」とか、まぁ、どうにでもなりますよね。
 逆にある文字を使わないというのも、意識すれば可能です。
(むかし幽遊白書の中にそのような勝負があったように思う。蔵馬が戦ってたやつね。)

 こういう観点で考えれば
『どんな文字でも使うことができる』『使ってはいけない文字はない』、といえる。しかし、

「おはようございま□」であれば、これはかなり意味が変わってきます。

 この場合、ここに入れて意味が通る文字はかなり制限される。

例えば、先ほどと同じで「さ」を入れてみる。

「おはようございまさ」

  (……?)
  (「まさ?」)
  (「まさ? 何?」)
 などと、要らぬ憶測をよんでしまいますが、これは明らかに文法的に意味をなしませんし、その次に言葉を繋いで行くのもむずかしい。
 でもまあ、江戸弁の魚屋、みたいな言い方で「おはようございまさぁ!」とというなら、ありかもしれない。

 この例で解るように、同じ言葉を選ぶにしても、全く自由に選択することが許される部分と、文法的にストリクトに規定される部分(他の言葉の影響を受ける部分)があります。

 音符でもやはり同じようなことがいえるわけです。一つ一つの音符だけを見てゆくと、どこに何の音を置いても文章を成立することができるが、結局は他の音符との並びにて整合性が決まっていくわけです。

 なんとなく、いいたいことがわかりましたでしょうか?

「正しさ」は一つではない

 では、文脈における正しさ・正しくなさ、の基準は、具体的にはなんでしょうか?

 困ったことに、実はジャズ全般に通用する決まりは、ないと言えます。

「ジャズ」と一括りにしていますが、その理論的なアプローチは時代と共に相当変遷しております。
むしろ過去に作られた理論を覆す方向で新しい音楽理論は拡張される傾向がある。
表現として、時代が下るとともにどんどん多様な方向に向かっているのがジャズです。

ですから、例えば1950年代のビバップハードバップの文脈ではふさわしくない音使いでも、それは後代の理論的なアプローチ(モードとか)ではオッケーな可能性がある。
そもそもマイルスがモード・イディオムに移行した理由こそが、バップ・イディオムによるアドリブに限界を感じていたからに他ならないわけですし。

理論的な枠組みは、大体時代が下る毎に自由になる傾向があります。これは、後代の理論には、必ずその前の時代の理論が内包されているからです。

つづく。