半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

バランス感覚

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バンドメンバーがこの前結婚したわけさ。

で、スピーチってほどではないんですが、なんかしゃべらなあかんかったので、その際に色々考えたことを、ここに書いてみようと思う。

おめでとうU君。

* *

 結婚したメンバーはだいぶ歳の若いピアニスト。

学生時代にジャズ研でジャズを始めたが、もともとクラシックピアノの素養もあり、またジャズ的な勘どころもよかったのか、学生時代から活動も群を抜いていた。ライブハウスで演奏したり、学生にしてローカルなプロ活動をスタートさせている。

だから卒業したらてっきりプロになるもんだと思っていた。

だが、あっさりと地元の市役所に就職する。

バークリーにもいかないし、東京に行ったりもしない。

彼の進路を聞いた当初は随分驚いた。ずいぶんもったいない話だなと思ったし、若いが夢を追いかけたりしないのだろうか、と。

今にして思えば、国立大学を留年もせず卒業しそのまま地方公務員となる、という一見「降りた」キャリアパスは、地方の篤実なご家庭の惣領として期待された責務を彼なりに果たしていたのだと思う。

ジャズもプロの域に達しつつ、学業にもぬかりはなかった。キャンパスライフもほどほどにエンジョイしていたらしい。

ここまでであれば、よくある「若者が夢をあきらめた話」なのだが、結論はそうではない。

ジャズピアニストとしての活動は相変わらず盛んで、東京のプロミュージシャンが地方巡業を行う、その客演で引っ張りだこであるし、いわゆるプロとしてジャズのライブもコンスタントに行っている。

もちろんフルタイムのプロ音楽家ではないので、たとえば結婚式などでの演奏やホテルのラウンジなどの「おいしい」仕事はしていない。

だが、このような仕事は、音楽的に面白いものでもないのは周知の通りだ。

仕事の方でも順調で、いわゆる「釣りバカ」、仕事そっちのけで音楽に没入というわけでもないようで、つまりはきわめてバランスのとれた男なのである。

* *

ジャズの場合は、面白い演奏とレベルの高い演奏、は重なるところが多い。音楽的な豊穣さを追求してゆくと、どうしてもプロミュージシャンの棲息する圏域に踏み込まざるを得ない。

(ポップスやロックの場合は、バンド単位の活動なので少し事情が異なる)

ただその反面、個人単位での活動が多いし、他のジャンルの音楽のようにバンド練習を重ねて作り込んでいくという作業は少ない。ジャズマンの多くはきわめて個人的な活動だ。

しかも、ジャズは、音楽だけで食うのは難しい。

集客も少ないし、単価も安い。結構難しい音楽なのに。

レベルの高さと面白さは、比較的相関するが、レベルの高さと収入は必ずしも相関しない。

東京でプロとして活動するミュージシャンも、自分が真にやりたい音楽だけでやれてる人って、ごく少数で、上記のように「音楽」ではあるがその実アルバイトのようなもので糊口をしのぐのであれば、一般職の方が時間単価は高いわな。

そういうわけで、ジャズはある程度のレベルに達した後は、二足のわらじが可能なジャンルと言えるし、実際そういう人はけっこう全国にいる。

* *

ローマ人は中庸というものを何よりも重んじたという、あれだ。バランスとコントロールというのは人生のあり方において重要なイシューである。

私も地方都市に生きるディレッタントとして生き方を試行している。

* *

だが、プロの活動で身を立てている一流のプロの出す凄味、というのはもちろんある。すべてを音楽にブッこむことからしか、ある種のデーモニッシュさは生み出せないのかもしれない。

プロとアマの汽水域に生息する我々からみると、フルタイム(結婚式の演奏とかではないやりたいことだけをやっている)のミュージシャンのレベルは、やはり画然としている。

やはりそのポジションでやっている人は、近いようで、遠い。覚悟の深さも、音楽の洞察の深さも、楽器のコントロールも、すべて超えられない壁がある。

テニスで言えば、もし対戦したら、サービスキープくらいはできるかもしれないし、タイブレイクまでは時にはもつれるかもしれない。だけど、要所要所できっちり締めてセットは絶対に落とさせない。そういう人が、フルタイムのプロになっている。

近くて遠いその存在に、死ぬほど憧れはするけども、

ただ、ハイアマチュアという領域は、totalでの社会貢献度を考えると、それなりの意味があるのだと、最近は思うようにしている。

ハイアマチュアを極めることも、とても難しいことで、そのやり方は、一流のプロフェッショナリズムの極め方とは方法論が異なる。

マネタイズから解放されるかわりに、「バランス」が要求される。そういえば、以前にミュージックライフバランス、というのを書いたことがあるな。http://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor/20140505

我が僚友のU君も、バランス感覚の必要な人生を歩みだした。

お互いにバランス系ジャズマンとして、切磋琢磨していこう。

私たちが楽器が上手くなる理由には2つあってだな その2

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前回エントリーhttp://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor151017では、人が音楽を続けていくには、きれいな理由だけではないということを書きました。

その人がいかに音楽が好きで音楽にコミットしてゆくかというまっとうな「白理由」の他に、音楽以外の部分で、音楽に向かわざるをえない理由=「黒理由」とがある。

そうして、白歴史と黒歴史の陰翳で、その人の個人史は形作られていきます。


前回の話には結論というものはなかったわけですが、こうしたことを紐解いたうえで、それがどやねんということを考えてみようと思います。


* * *

自分のあり方として

ある程度経歴を重ねた自分を振り返って、自分の「白歴史」と「黒歴史」は

自覚しておく方がいいんでしょうか?

私個人は、ある程度自覚した方がいいかな、と思っています。

その人の「黒歴史」は、普段は抑圧している負の思い出であり、あまり棚卸しされることのない感情の澱そのものだったりするから。自分の好悪や非合理な行動は、こうした「黒歴史」に無意識下に影響されていることが、しばしばあります。

例えば、昔嫌いな人が好きだった文物や場所、人に対して、無条件に嫌いな感情が付与されたりだとか。

* * *

もし自分の「黒歴史」を言語化し、分析することができれば、非合理な好悪はある程度コントロールすることが出来るかもしれない。その結果、ほんとうは嫌うべきでないものを嫌わずにすむのかもしれません。

Closed MindからOpen Mindになることで、少し音楽の見え方が変わることがあります。もし「黒理由」がそれを阻んでいるとしたら、こだわりをすてることは必ずプラスにはたらクでしょう。

* * *

ジャズという音楽は、比較的分析的なジャンルであり、自己分析が、本質的な音楽の才能を傷つけることは少ないように思われます。

ただ、例えばそうした過度の分析・感情のクレンジングがマイナスに作用することは確かにありえると思います。例えば、作詞・作曲などのクリエイティブな領域は、過度に分析的であることが影響を与えてしまう可能性はあるかもしれない。*1

パッションは、理性の冷風に当てることで、よくなることもあるけれども、悪くなることもありうる。歌詞などは、過度に説明的であったり整合性などを気にすると面白くなくなることもあるから。

僕自身はどちらかといえば分析的な人格で、分析的な演奏をするんですが、そういうのを超えたデーモニッシュな演奏家に当てはまるかどうかは、正直わかりません。各人でご判断ください。

* * *

バンドとの関わりにおいて:

長く音楽活動をしていると、(ジャズでは特にそうですが)常に同じバンドに所属しているわけではないが、共演歴が長く、単なる友人以上の存在であるミュージシャンが少なからずいるように思います。

 自分の悩みを打ち明けたり、打ち明けられたり、しんどい時のことも知っているミュージシャンには、いわば自分の「黒歴史」の部分も知られているわけです。

 そういう存在は、腐れ縁というか、半分家族というか、単なるバンドメンバー以上の意味があります。

 黒歴史・黒理由というのは、触れる時に痛みを伴うものなので、むやみに誰にでも開陳するものではないと思います。従って、そういうものを誰にでもペラペラ喋る必要はない。当たり前の話ですが。

 ただ自分の黒歴史を知らしめていないメンバーに対しては、当然ながら、あくまでも社会人として節度ある行動が求められると思います。自分の弱みをみせていない人に対して、弱みが理由である自分の非合理な行動が受け入れられるはずがない*2

 自分の非合理で痛い部分=「黒歴史」をも共有している関係性の深いバンドメンバーには、ある程度の「甘え」が、場合によっては許されるのかもしれない*3

 逆に、メンバーのそういう過去を知るということは、メンバーから非合理なレベルの行動に振り回されることがありうるわけです。面倒な話ですが。

その代償として深いコミットメントは得られるかもしれないが。

*1:自分は作曲をしないのでそのあたりの機微はわかりませんが

*2:ときどき、理由が明らかにされていない共演NGがありますが、事務所所属ならマネージャーを通したりできますけど、完全に個人で動いているミュージシャンの場合は、はっきり言ってそういうこという資格ないよ、と言いたくなる。

*3:あくまで甘えを許すかどうかは相手の考えによることは留意してください

私たちが楽器が上手くなる理由には2つあってだな

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今回のはあまり生産的な話ではないです。

学生であれ、社会人であれ、プロであれアマチュアであれ、音楽を続けることによって経験は積まれてゆき、程度の差はあれ、それなりに習熟してゆく。

不思議なことに、コンスタントに続けていても、上達は均等に起こらないことが多い。比較的不連続なブレークスルーの繰り返し*1

誰が考えたのか知らないが、RPGのレベルアップの概念はよくできていて、あれが実情に近いと思う。

* * *

例えば社会人で、短期間にメキメキ上手くなっている人、たまにいますよね。もちろんこの場合、音楽が好きで没頭しているのは大前提ではあるのだが「音楽」をしている時間以外のことが、音楽の上達の理由になっていることが時にある。*2

例えば、仕事の壁にぶち当たっているとか、干されて暇だとか、家族やパートナーとの人間関係に深刻な問題を抱えているとか。身も蓋もなくいえば、アイデンティティークライシスみたいなもの。

また女性によくあるパターンとして、恋愛がきっかけで音楽に関係するというのは一定の割合であります。*3 *4

* * *

上手くなりたいと思って練習をする。ただそれだけ。

こんなナイーブ過ぎる理由では、社会人は音楽に没頭できない。いろいろ忙しい時間を調整して、可処分時間をひねり出し、音楽に従事するには、それなりの理由を必要とする。

虚心坦懐に音楽に近づいてるのか、それとも、音楽抜きの世界で居場所がないからなのか。

音楽に引っ張られているのか、押し出されて音楽をやらざるをえないのか。

* * *

というわけで音楽の上達における「白理由」の背後に、しばしばその人が音楽に向かわざるを得ない「黒理由」があることがある。*5

プロの場合比較的シンプルだ。上達が即、収入や音楽的選択肢の増加につながる。学生を含む高等遊民とプロだけが屈託無く音楽をすることが許される。

社会人の場合「白理由」の背後に「黒理由」が透けて見えてしまうことは時にあって、その切実さは、音楽にある種の凄みや重みを付与することがある。

その凄みや重みをうまく使いこなせるかは、その人次第で、重みは、使いようによっていい風にも悪い風にも作用する。切実さ、というのは「イタさ」と同義だからだ。

え?僕?

なんの話?

*1:これを理解していないと初学者の人は「踊り場」の時点で退場してしまう

*2:上述の通り、経験の蓄積と上達とは少し時相がずれることは留意しておきたい

*3:彼氏の趣味で聴く音楽が変わるというのは女子あるあるです。

*4:あくまできっかけであり、別れてしまって止めるか続けるのかはその人次第だと思いますが

*5:多くの場合それは表面に出ることはない。というか掘り起こさないのが花だ。

呼吸の話

管楽器の呼吸の話はいろんな人が書いている。本でも、ネット上でも、沢山の情報に接することができる。

長らく管楽器をさわっている自分は、こういう情報にとかく辟易としていて、あまり重視してなかった。呼吸に関しては漫然と行い、それでよしと考えていた。

腹式呼吸はできてるやろ、長年やってるし。それで十分やん…という態度だったのだ。

しかし、沢山の人が書いているだけあって、呼吸は大事だよな、ということを最近痛感した。

* * *

私はどちらかといえばバップスタイルの、細かいフレーズを刻むスタイルで演奏することが多く、また好きだ。

こういうスタイルではブレスそのものは、楽器コントロールすべき技術のなかで優先度は低くなりがちだ。

反対に、メロディーを吹き伸ばし、朗々とうたいあげるような、いかにもトロンボーンらしいスタイルは苦手だった。バラードも苦手。

そういう特性を自認していたのだが、もしかしたら、こういったスタイルの好みは、本当は自分の音楽的嗜好から発生したものではなくて、そもそも呼吸(正確にはフレーズのブレス)が苦手だから、フレーズを刻んだのかもしれない、と最近思うようになった。

 無意識下なのか、認知的不協和からか、そういう理由付けをしていたのだ。つまり、バップが好きだからそういうプレイをしたというより、メロディアスな吹きのばしが苦手だから、そういうことにしたのかもしれない。ひょっとしたら因果律が逆かも。

* * *

私もそうだが、学生時代吹きまくっていた人は社会人になると、実際楽器吹く時間が少なくて、基礎練がおろそかになる傾向がある。単純に使える時間も少なくて、スケール練習とかを優先する判断は、あながち間違いでもあるまい。

ただまあ、ものには限度というものがあって、長年ロングトーンとかを怠ると、てきめんにパフォーマンスが下がる。

音。ロングトーン

ここが、プロとアマチュアの違いの最たるものだと思う。

以前ライブ後に多田誠司さんのお話聴いたときも「セッションで一緒にやってフレーズとかで、いいなとかうまいなと思うアマはいっぱいいるけど、音で『負けた』と思わされたことは一度もないな」とおっしゃってた。本当にそうだと思う。

プロはやはりプロの堅牢な音がする。

特に一流のプロになるほど。

もちろんプロと全く同じような練習はできないけれど、そこの部分から、僕は目をそらしがちで、結果的に選択肢をせばめていたように思うのだ。

* * *

かといって、とにかく大きい音で元気よく吹けばいいというものではない。プロの音は、大きかろうが小さかろうが、存在感があってきちんとはっきり聴こえる。Hunter×Hunterで言うところの『念』がこもってるんじゃないかと思えるくらいだ。

これは三塚知貴さんと話していて教えてくれたことだが、例えば、urbie greenの

I'm getting sentimental over youをみてみよう。

http://youtu.be/odr78mOtU8g

YouTube で見ている限り、4小節以上をワンブレスで吹いている。

実に朗々とメロディーを吹き上げており、休符にも無駄がない。

こんな風に僕はふけるかというと、今は吹けない。

でも、こうでないと、メロディーが歌えていることにはならないんだと思う。メロディーラインをしっかり意識し、可能であれば歌詞の把握した上で、息継ぎを行う。

マチュアはブレスが無駄に多い人は結構いると、僕も思う。

こういうことを意識してテーマの練習をしようと思う。

楽器の技量と音楽の技量と

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この前に書いたことと、一部似ているけれど。

そんなわけで、楽器の技量と演奏のパフォーマンスは必ずしも平行しない。

楽器がうまければ使用する引き出しも多く、サウンドをカラフルにすることはできるが、どうしてもおさえるべき部分は、ある種の覚悟のようなものである。

それは技量とは別の次元の心性で、その上部にある音楽性と、自分の中のアイデアを具体化するある種の覚悟のようなものだ。

今の自分の演奏に不満があるときに、それが、自分のアイデアを楽器に翻訳する段階に問題があるのか、それとも、そもそもアイデアそのものがまずいのかを分けて考えてみたらいい。

演奏がダサいのは、楽器がヘタなんじゃなくて、音楽そのものがヘタなことが圧倒的に多い。しかしこれは多くの人が(僕も含めて)認めたくないことだ。*1

窓ガラスを割らんばかりの圧倒的なハイトーン、口の中で万能ネギを小口切りにできるほどの鋭いタンギングを持ちながら絶望的にダサいアマチュアのアドリブソロを幾度聴いてきたことか。楽器のうまさに依拠する悪い例である。

そういう御仁はまるでちんぽの大きさのように楽器のうまさを誇示する。それが彼のアイデンティティの拠り所なので。ますます練習しより大きなリソースをそこに注ぐ。でもそれでは音楽は上手くならず、その結果が「まるで痛いだけのセックス」のようなアドリブだ。

こういう極端な例は明らかだが、誰しもこういう要素を持っていることを自戒しないといけない。人間うまくいってる練習は続けたいものだ。だって、気持ちいいからね。新しいことをとりいれると、最初は試行錯誤して、すぐ成果はあがらない。

「できる」人は「できない」練習をやりたがらない。

あるいは。「できない」人は「できる」練習しかしない。

これが、演奏の技量に束縛される現象だ。

* *

最近僕は、ピアノをさわっている。実は幼少の頃ピアノはやってなくて、大人になって始めたわけだ。

当然全然うまくなく、つたない自分の演奏に腹も立つのだが、しかし例えばセッションに参加すると、つたない技量の中で、微風ながらも起承転結やトータルサウンドに貢献しなければいけない。

そうすると、まるで「おやつは300円まで」の世界だ。乏しい引き出しをやりくりしないといけない。

だが逆にその「やりくり感覚」って、自分の一番得意な楽器を触ってるときには意識しにくいことなんである。着想の部分はどの楽器であれ共通する要素だ。

セカンド楽器のいいところは、自分の演奏技量のプライドの呪縛から解き放たれ、着想部分を純粋に考えることができることだと思う。

プロミュージシャンは鼻唄歌っても菜箸で机をチンチンやっててもかっこいいのである。*2

* *

別にセカンド楽器をしなきゃいけない、というわけじゃない。楽器の技量に依存していない部分、音楽のイデアを涵養しましょうという話だ。

ただセカンド楽器をさわると、その辺は割と明確にはなる。

着想のところはどんなに楽器をさわる時間が短くても関係ないわけで、時間のない社会人でもできないわけではないのだ。

*1:大体がジャムセッションにでる連中のほとんどが、学バンの中では「腕自慢」なほうだから、セッションにでるに必要な最低限の楽器の技量は持ち合わせていることが多い

*2:一流のプロの話である。音楽ってものをわかっている人は、やはり不慣れなデバイスでもかっこいい。

楽器のうまい下手、アマとプロの汽水域にいる話

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ちょっと前にTwitterでも書いていましたが。

私は、昼間は普通の仕事をしているのですが、趣味としてジャズをやっております。

マチュアのジャズミュージシャンの実力としては、どれくらいのポジションにあるか?というのは、なかなか難しいよなあと思いますが、一応、中級者~上級者と自称しても差し支えないかと思っています。*1

大体どこのジャムセッションにも行って、大体の曲はやっちゃう。あと、歌伴のオブリとかも大体やっちゃう。

ただ、超速のテンポとか苦手ですし、D~F#のシャープ系のキーは苦手で、二の足を踏んだりしますし、バラードの表現力は拙いなあといつも臍を噛む思いでもあります。んーじゃあ、中級者か。中の上。

そんなわたしの、戯言です。以下は。

* * *

 というわけで、プロが混じっているセッションにも、今ではあまり抵抗なく参加している昨今ですが、学生の時分、プロのミュージシャンといえば、全く雲の上の存在で、親しげに話なんかできなかったし*2 ましてや、一緒に演奏させていただくなんて、めったにないことでした。

 逆に、学生の頃は、CDになってるような有名ミュージシャンに対して、「ここがいい悪い」など知ったげな事を言ったりこきおろすことも可能でした。

 なぜなら、彼らは別の世界の住人だったから。

 下手くそだったからプロと住む世界が完全に違っていたわけだ。

ところがいまは、その頃よりちょっとうまくなり、そのおかげで世界が広がりました。すると、そういう人と、例えばアフターセッションなどで同じ舞台にたったりするわけですね。

 演奏を目の当たりにすると、自分との懸隔をまざまざとみせつけられるわけで、そういうことは逆に言えなくなるんですよね。うまくなれば、さらに上が見えるので、人は謙虚にならざるを得ません。

 リスナーとして聴く分には「大したことないわ…」とか不遜にも思ってたミュージシャンでさえ、一緒にやると、やっぱりすごいんだわ。はあ、一緒にやるって、聴くだけよりもいろんなことがわかるものですね。

* * *

 かといってプロだから即尊敬に値する、という訳でもないのは面白いところ。

 楽器で飯を食う、ということは、並々ならぬ覚悟でできることではない。その姿勢だけで尊敬すべき人生を選択されていることは間違いないんです。

 ただ、演奏家としての技量やそのサウンドのありようは、やはりまちまちで、専業演奏家だから、無条件に尊敬できる演奏になるというわけではない*3

 専業音楽家であることは、すばらしい演奏の必要条件の一つではあるけれども、十分条件ではない。

 たとえば、プロアマの汽水域から這い上がれないプロの中には、楽器は抜群に上手いけど一流プロになるための何かが欠けているのか、「唄う」アマチュアの方が部分的には優れている場合がある。

* * *

 うちの父はゴルフ狂いなのだが、音楽狂いの私のそれと同様、往時はアマチュアでありながらプロと時には一緒にやるくらいの腕前である。左利きでハンディは最高で3。

 そのセミプロ級の父に聞くと、ゴルフでも同様のことはあると。

 ゴルフのプロは、そりゃあプロテストに受かる「スポーツ選手」なので、体の作りこみもすごいし、ドライバーの飛距離とか、そういう強さは、やはりアマとは画然としているわけですけれども、結局ゴルフの本質はパッティングであり、そこはメンタルおよび経験が結構ものをいうので、たとえば勘所のいいベテランアマチュアからみたら、まだ「つかみ切れていないよなあ」みたいに感じられる部分もあるのだとか。

 で、アマでもプロとやり慣れている人は、そういう戦力の非対称部分をうまく使って、「全要素でアマに勝たないと」、と思っている若いプロの勝ち気に乗じて勝負をしかけるらしい。

 すごくわかる気がする。

* * *

 もちろん、競技ゴルフと、ジャムセッションは違う。

 でも、テニスのラリーとは、少し似ている部分もあるかもしれない。

 ラリーを続けることと、得点をすることが、相反するように。

 ジャズは、勿論協働してひとつの曲を作り上げる「非ゼロサムゲーム」的な要素もあるわけですが、もちろん、ソリスト同士が、お互いのソロを競う「ゼロサムゲーム」的な要素もあるわけです。

 出来上がった音楽をいいものにするには、相手の得意なところをのばすようなアプローチがいい。でも、相手よりも自分のソロを印象深いソロにするために、相手の得意な部分をつぶすようなアプローチも時にはありうるとは思います。

 相手に打たせて、ラリーを続けるような演奏。相手に打たせないようにして、得点をあげるような演奏。

 演奏においては、共演者に対する尊敬と反感、自己に対する謙遜と自負、さまざまなメンタリティーが混在しており、それによって、とりうるアプローチがいろいろかわってくるわけで、それがジャズの出たとこ勝負であり、楽しい部分であると思います。

 ジャムセッションというのは、ある種のゲームであると私は思っているのですが、時々そういうことを考えつつ、各人のエゴを推し量りながら、自分の表現を変えたりしています。

*1:そもそもトロンボーンという楽器自体がジャムセッションにおいてはハンディキャップ楽器なので、この辺の評価が難しいところではある。また、こういう「自認」ってやつは、基本的に過大評価しやすいという弊もある

*2:もちろんこじれた自意識も大いに作用していたと思います。

*3:口に糊するために不本意な演奏をする、というパターンの専業音楽家も当然いらっしゃるわけですし

ヒゲとボインとギター

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ワークライフバランス(Wikipedia)という言葉と同様に、ミュージックライフバランス、ということを考えてもいいと思う。

 バランスを欠いている人が周りに多すぎる。

 自戒もこめて。クールダウン。

 *  *  *

 プロの場合はすべてのエネルギーを注力することが許される(むしろそうしなければいけない)が、主たる生計が音楽以外にある場合は、可処分時間として多くを仕事に削られ、残ったリソースを音楽に注ぎ込むことになる。

 問題は残ったリソースのうちどれくらいを音楽に注ぎ込むかだ。この可処分時間のうち音楽の占有率が多すぎる場合は、その分何かを代償していることは間違いなく、しかも我々はそのような「不都合な真実」から目を背けがちである。音楽は基本的には「快」に属することで、今やらなければならない緊喫の事案から目を背け、音楽に逃避する弊がある。

 以前僕は学生に向かって「学業、音楽、セックス。二つまでは選べる」と言っことがある。セックスという言い方が直截的すぎるなら、恋愛といってもいい。これは医療における有名なトリレンマのパクリだが、社会人になっても学業が仕事に置き換わるだけでそれは同じだ。

ヒゲとボイン

ヒゲとボイン

 

 Unicornの名曲「ヒゲとボイン」は仕事か恋愛かという二者択一をヒゲとボインというアイコンで単純化して見事な歌詞にしたわけで、この言い方に従えば、我々は「ヒゲとボインとギター」のうち2つを選ぶ世界に生きている*1

 *  *  *

 ただ、現実はオール・オア・ナッシングではなく、ゲームのようにアイコンを選んで装備して終わり、というわけにはいかない。現実には、我々はヒゲもボインもギターをバランスよく配分して生きることになる。複数のことを同時に処理する意識をもつ必要はあるけれど。

 私は頭の中に、自分の取り組んでいることに関するポートフォリオ(wikipedia)をいつも頭の中で想像している。その中には、仕事(これは臨床的なこと、医療経営的なこと、学術的なことなどさらに細分化されている)や、音楽、ダイエット(ジョギング)、家族との関係性、友人関係などが入っている)。

 自分の中のポートフォリオの中の事柄の優先度をうまく管理して、ベターなパフォーマンスをあげられればいいと、いつも思う。

 人がどう感じようが、自分のなかでトータルで損得感情が浮けば、人生、勝ちだ。

 *  *  *

 一つ一つの事柄に関しては、かけたコストに対してリターンが帰ってくる。この場合、コストはお金ではなく、時間や自分の情熱であり、リターンは自分の満足度ということになる。

 ある程度コストを増やすにつれてリターンは増える。が、あるレベルを超えると用量依存性が失われて効率は逓減してゆくはずだ。

 そしてポートフォリオにファイリングされている音楽、仕事、だけではなく、その他のものにも気を配っておかなければいけない。家族のこと、だったり、恋愛だったり。家事だったり、その他の維持すべき友人関係であったり、別の趣味であったり。時間は有限で、ある種誰にとっても平等だ。自分にとってのもっともよいバランスをさぐる。


 音楽に対する深い情熱を持つことと、冷徹に今の自分のありようを客観視して、注力する時間を出し入れすることは矛盾はしないと思う。すべては趣味を継続させるのに必要なことだ。BCP(Business continuity planning)。


 すなわち、ミュージック・ライフ・バランス。

*1:音楽を演奏することを「ギター」と象徴した。なんとなく演奏して遊んで暮らす、というと南の島でギターかウクレレをもっているのを想像するから。