半熟ドクターのジャズブログ

流浪のセッショントロンボニストが日々感じたこと

コードの理解 その5:まとめ

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さて、1〜4まで、コード進行についてつらつら述べてきました。
といっても、コード進行の「あり方」というものを示しただけです。眺め方、とでもいいましょうかね。

理論的な飛躍

本来、「ドミナント(V)」→「トニック(I)」の解決感は、一つの調性の中に限定した話のはずでした。

バップ技法の革新的な所は、このⅤ→Ⅰの流れを、いついかなる場合でも使用したことです。
元々の曲の調とかそういうものはともかくとして。無視して。
この瞬間だけはキーが変わっていると考えて。

例えば、Cの調性の曲の中にGmaj7があったとする。そしたら、そこだけmajor Gと考えてみようよ。そうすると、その前にAm7-D7が来るよね。
じゃあそれをGの前に埋め込んでやろうよ、え?もとのCの調性との折り合い?
そんなん知らんがな。
と、そういう考え方です。
瞬間的にそのキーに転調していると考える。
そうして、しれっとツーファイブをそのコードの前に置いてやる。
つまり、コードの変化をミクロなレベルでの転調と考えて、一つの曲をミクロなレベルでの転調の繰り返しととらえるわけ。

そう考えると、ツー・ファイブをまるで万能調味料のように曲のあちこちに使って、曲を複雑化することができる。
そしてバップはまさにこの様にして曲の複雑化を行っているわけです。

このことから考えてもわかるとおり、バップ・イディオムというのは、どんどん転調するわけですから「その曲の本来ある調性(トーナリティー)」から離れる覚悟を決めたアプローチであるといえます。

この様なアプローチによって、曲のトーナリティーから離れフレージングの自由さを手に入れることができました。
その代償として、一つの調性(トーナリティー)が示す安定感や統一感(トータリティー*1を失うことになります。

バップ・イディオムは曲のストラクチャーを不安定化、抽象化する方向にも働く力でもあります。
初期のバップが、いわゆるスタンダードな曲をひな形にして、それを複雑化する、という形でしか発展し得なかったのも、おそらくこういう形態のためではないかと思います。初期のBop-Performerは原型がなければ自分らのスタイルを構築できなかった。
誤謬をおそれず言ってしまえば、バップは一つのスタイル、編曲技法に過ぎず、作曲技法ではない、ということです。

モダニズムとの共時性

ちなみにこうしたBopのコンセプトが生まれた背景には20世紀の時代精神というものが色濃く反映されているように思います。
絵画の世界などにも同様の変化が窺えるからです。

二組の風景画を提示してみましょう。レオナルド・ダ・ヴィンチセザンヌです。

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ダ・ヴィンチ "Arnovalley"
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セザンヌ 『リンゴとオレンジ』

レオナルド・ダ・ヴィンチルネッサンス期の画家です。彼の描く絵は単一の消失点を用いて極めて整合性の高い遠近法によって描画されています。
まるで写真をそのまま観ているかのごとくの写実性と統一感に満ち満ちています。
このArnovalleyなども、かなりラフにざざっと描きあげているのに、かなり厳密な遠近法で乱れがありません。

しかし、たとえば19世紀から20世紀初頭の代表的な画家であるセザンヌの技法は、もはや単一の遠近法には縛られません。
下の絵はセザンヌ『リンゴとオレンジ』です。
有名な逸話ですが、この絵のように積み上げられたオレンジは、安定せず、積み上げることはできません。
布のしわも、おかしい。
あり得ない形なんですね。
そういう点で、この絵はまるで写真のようなな、ダヴィンチのリアリティとはかけ離れています。
が、整合性よりも、回り込んで対象を視た時・触った時のリアリティを出すためにあえていろいろな視点からの見え方を混ぜて描いています。
一点透視図法の観点からは歪んでいるように見えるこの技法は、だからこそ物体の「リアリティ」に迫っているということです。
多視点から描かれた物体が一つの絵画の中で渾然一体としている。
視点の相対化が起こっている。
アプローチの点で多少の違いもありますが、ピカソキュービズムなどはさらに先鋭的にそういうコンセプトを推し進めたものです。

* * *

バップの方法論の根底には、トーナリティーの相対化があります。
それは絵画技法における消失点の相対化と、本質的にはひどく似かよっている。

そういった現象の通奏低音として、19世紀から20世紀にかけての時代精神があったのではないかと僕は思っています。
ヨーロッパの古典芸術を頂点とした階級主義的な芸術史観から、文化相対主義的で複眼的な世界思考へ移行しつつある時代の、精神。

ジャズは典型的なクレオール文化に属するものですが、クレオール的であるからこそ、敗戦国日本で、一種の屈折した形で受容された。
これが日本の戦後ジャズ史における重要なポイントだと僕は思っています。
すみませんこれは先走りすぎました。またどこかでまとめて書きます。

最後に

 最後はなんか妙な思いのたけをぶちまけるページになってしまいました。
 まあ、イメージは大事です。あくまで、この章はイメージが喚起できればそれでいいと思います。

 まとめ:

  • スタンダードブックに書かれているコード進行は、あくまで一つの道案内にすぎない
  • 書かれたコードは、流れを読むものであり、一小節一小節そのコードに厳密に制限されていて「正解」の音を鳴らしていくパズルではない
  • 逆に書かれたコードから、原型になる曲の基本構造(単純な形)も透けてみることができる。そうした方が曲を理解しやすい。
  • 書かれているコード進行は、発展させてよい。アドリブソロの中では特に。

では、こうしたコードを踏まえてどうフレージングをするか?
コード進行の発展のさせかたをどうやっていくか?
書いたコード進行と、実際演奏されるコード進行は、どのように折り合いをつけていくのか?
ということをこれから示していこうと思いますが、一旦この章は終わりです。

*1:ユナイティ Unityの方がニュアンスとして正しいでしょうかね…